・・・かぎろいの春の光、見るから暖かき田圃のおちこち、二人三人組をなして耕すもの幾組、麦冊をきるもの菜種に肥を注ぐもの、田園ようやく多事の時である。近き畑の桃の花、垣根の端の梨の花、昨夜の風に散ったものか、苗代の囲りには花びらの小紋が浮いている。・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・この多事なる世界は日となく夜となく回転しつつ波瀾を生じつつある間に我輩のすむ小天地にも小回転と小波瀾があって我下宿の主人公はその尨大なる身体を賭してかの小冠者差配と雌雄を決せんとしつつある。しかして我輩は子規の病気を慰めんがためにこの日記を・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・じ(元来飲酒会宴の事は下士に多くして、上士は都て質朴、殊に徳川の末年、諸侯の妻子を放解して国邑に帰えすの令を出したるとき、江戸定府とて古来江戸の中津藩邸に住居する藩士も中津に移住し、かつこの時には天下多事にして、藩地の士族も頻りに都会の地に・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・なおはなはだしきは、かの血気の少年軍人の如きは、ひたすら殺伐戦闘をもって快楽となし、つねに世の平安をいとうて騒乱多事を好むが如し。ゆえに平安の主義は、人類のこの一部分に行われて、他の一部分には通用すべからずとの問題あれども、この問題に答うる・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
わたしたちの生活に平和が戻り新しい民主生活の扉が開かれて、二度目の春を迎えることになりました。 昨年はわたしたち婦人にとって初めての経験である総選挙も行われ、そのほかずいぶん多事な一ヵ年を過しました。そして今日わたした・・・ 宮本百合子 「自覚について」
・・・この公開状を見ると、われわれプロレタリア文化運動に従う者の面前に、どんな広汎な、多事な戦線が展開されているかを痛感する。〔一九三一年十月〕 宮本百合子 「反動ジャーナリズムのチェーン・ストア」
・・・ 浦賀へ米艦が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五のときである。大儒息軒先生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとしてわずかに免れていた。 飫肥藩では仲平を相談中とい・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫