・・・その男はしばらくその夜景に眺め耽っていたが、彼はふと闇のなかにたった一つ開け放された窓を見つける。その部屋のなかには白い布のような塊りが明るい燈火に照らし出されていて、なにか白い煙みたようなものがそこから細くまっすぐに立ち騰っている。そして・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・しかし花があり月があっても、夜景を称する遊船などは無いではないが余り多くない。屋根船屋形船は宵の中のもので、しかも左様いう船でも仕立てようという人は春でも秋でも花でも月でもかまうことは無い、酒だ妓だ花牌だみえだと魂を使われて居る手合が多いの・・・ 幸田露伴 「夜の隅田川」
・・・ エピローグとして最初と同じ銀座鋪道の夜景が現われる。ここで若い靴磨きが変な街路詩人の詩を口ずさみ三等席の頭上あたりの宵の明星を指さして夕刊娘の淡い恋心にささやかな漣を立てる。バーからひびくレコード音楽は遠いパリの夜の巷を流れる西洋新内・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ どこかの山中の嶮崖を通る鉄道線路の夜景を見せ、最後に機関車が観客席に向かって驀進するという甚だ物々しいふれだしのあった一景は、実は子供だましのようなものであった。舞台の奥から機関車のヘッドライトが突進して来るように見えるのは、ただ光力・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・に負けろと値切っても相談にならなかったので、帰りに、じゃ六貫やるから負けろと云ってもやっぱり負けなかった、今年は水で菊が高いのだと説明した、ベゴニアを持って来た人の話を思い出して、賑やかな通りの縁日の夜景を頭の中に描きなどして見た。 や・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・東京を留守にしようとする網野さんは感情をもって此等の夜景を眺めているらしかった。「――元よくこの辺翔んでいた――都鳥でしたっけか、白い大っきい鳥――ちっともいなくなっちゃいましたね、震災からでしょうか」 区画整理が始まって、駒形通り・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・此の間の晩の事を思い浮べて又今の話をきいて身ぶるいの出るほどいやな心持になった光君はそこをはなれてしずかに更けて行く庭の夜景色を欄干によって見て居られたがさとくなった耳にフト何とも云われなく美くしい琴の音がひびいて来た。かすかにごくかすかに・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・ 多喜子は参吉の腕をじっと自分の胸にひきよせて、息をのむようにこの冷たい、荒い、夜景の美しさに見とれた。「思い出すわ、私。――ほら、私たちが一緒になって間もなく、大塚の公園へ行ったとき、何かの工事で、やっぱり大きな石がちらかっている・・・ 宮本百合子 「二人いるとき」
出典:青空文庫