・・・ 妙子はまだ夢現のように、弱々しい声を出しました。「計略は駄目だったわ。つい私が眠ってしまったものだから、――堪忍して頂戴よ」「計略が露顕したのは、あなたのせいじゃありませんよ。あなたは私と約束した通り、アグニの神の憑った真似を・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・も井戸の水を使っていた。が、特に飲用水だけは水屋の水を使っていた。僕はいまだに目に見えるように、顔の赤い水屋の爺さんが水桶の水を水甕の中へぶちまける姿を覚えている。そう言えばこの「水屋さん」も夢現の境に現われてくる幽霊の中の一人だった。・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ が、お敏の身になって見れば、いかに夢現の中で云う事にしろ、お島婆さんが悪事を働くのは、全く自分の云いつけ通りにするのですから、良心がなければ知らない事、こんな道具に使われるのは空恐しいのに相違ありません。そう云えば前に御話ししたお島婆・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現の間に人に呟かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人たる者がこれを聞ける胸中いかん。この言をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜を惹き起こすに相違なきも、病者に対して看護の・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 魂の請状を取ろうとするのでありますから、その掛引は難かしい、無暗と強いられて篠田は夢現とも弁えず、それじゃそうよ、請取ったと、挨拶があるや否や、小宮山は篠田の許を辞して、一生懸命に駈出した、さあ荷物は渡した、東京へ着いたわ、雨も小止み・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・「一昨年来た時には、君も新婚当時で、夢現という時代であったが、子供二人持っての夫婦は又別種の趣があろう」「オイ未だか」 岡村が吐鳴る。答える声もないが、台所の土間に下駄の音がする。火鉢の側な障子があく。おしろい真白な婦人が、二皿・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・この時こころの疲れ、身の疲れを一時に覚えて底なき穴に落ちゆく心地し、しばしは何事をも忘れたり。夢現の境を漂うて夜のふくるをも知らざりしが、ふと心づきて急に床に入りたれど今は心さえてたやすくは眠るあたわず、明けがた近くなりてしばしまどろみぬと・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・身も魂も疲れに疲れて、いつか夢現の境に入りぬ。 林あり。流れあり。梢よりは音せぬほどの風に誘われて木の葉落ち、流れはこれを浮かべて走る。青年あり、外套の襟に頸を埋め身を縮めて眠れる、その顔は蒼白し。四辺の林もしばしはこの青年に安き眠りを・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 窓の鉄棒を袖口を添えて両手に握り、夢現の界に汽車を見送ッていた吉里は、すでに煙が見えなくなッても、なお瞬きもせずに見送ッていた。「ああ、もう行ッてしまッた」と、呟やくように言ッた吉里の声は顫えた。 まだ温気を含まぬ朝風は頬には・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・この盃の冷たい縁には幾度か快楽の唇が夢現の境に触れた事であろう。この古い琴の音色には幾度か人の胸に密やかな漣が起った事であろう。この道具のどれかが己をそういう目に遇わせてくれたなら、どんなにか有難く思ったろうに。この木彫や金彫の様々な図は、・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫