・・・ と的面にこっちを向いて、眉の優しい生際の濃い、鼻筋の通ったのが、何も思わないような、しかも限りなき思を籠めた鈴のような目を瞠って、瓜核形の顔ばかり出して寝ているのを視めて、大口を開いて、「あはは、あんな顔をして罪のない、まだ夢じゃ・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・とその魚売が笊をひょいと突きつけると、煮染屋の女房が、ずんぐり横肥りに肥った癖に、口の軽い剽軽もので、「買うてやらさい。旦那さん、酒の肴に……はははは、そりゃおいしい、猪の味や。」と大口を開けて笑った。――紳士淑女の方々に高い声では申兼・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 肩を聳て、前脚をスクと立てて、耳がその円天井へ届くかとして、嚇と大口を開けて、まがみは遠く黒板に呼吸を吐いた―― 黒板は一面真白な雪に変りました。 この猛犬は、――土地ではまだ、深山にかくれて活きている事を信ぜられています――・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・店も何も無いのが、額を仰向けにして、大口を開いて喋る……この学生風な五ツ紋は商人ではなかった。 ここらへ顔出しをせねばならぬ、救世軍とか云える人物。「そこでじゃ諸君、可えか、その熊手の値を聞いた海軍の水兵君が言わるるには、可、熊手屋・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・と、後じさりをすると、電信柱は手をたたいて、ははははと大口開けて笑った。「小男さん、私は、こうやっていられない。夜が明けて人が通る時分には、旧のところへ帰って立っていなければならんのだ。おまえさんは、独りこの屋根にいる気かね。」と、電信・・・ 小川未明 「電信柱と妙な男」
・・・と、大口をききました。 これにひきかえて、母子のくまを打たずにもどったやさしい猟人は、どうか、はやく、あの母子のくまはどこかへ隠れてくれればいいと思いながら歩いてきました。 家ではおかみさんが待っていました。「うちの人は、久しぶ・・・ 小川未明 「猟師と薬屋の話」
・・・その崋山の大幅というのは、心地よげに大口を開けて尻尾を振上げた虎に老人が乗り、若者がひいている図で、色彩の美しい密画であった。「がこれだってなかなか立派なもんじゃないか。東京の鑑定家なんていうものの言うことも迂濶に信用はできまいからね。・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・されどかの君は大口開きて笑いたまい、宝丹飲むがさまでつらきかと宣いつつわれらを見てまた大口に笑いたもう。げに平壌攻落せし将軍もかくまでには傲りたる色を見せざりし。 二郎が苦笑いしてこの将軍の大笑に応え奉りしさまぞおかしかりける。将軍の御・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・と竹内は大口を開けて笑った。「否ビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」「オムレツかね!」と今まで黙って半分眠りかけていた、真紅な顔をしている松木、坐中で一番年の若そうな紳士が真面目で言った。「ハッハッハッハッ」と一坐が・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 高須隆哉が楽屋を訪れたときには、ちょうど一幕目がおわって、さちよは、楽屋で大勢のひとに取り巻かれて坐って、大口あいて笑っていた。煙草のけむりが濛々と部屋に立ちこもり、誰か一こと言い出せば、どっと大勢のひとの笑いの浪が起って、和気あいあ・・・ 太宰治 「火の鳥」
出典:青空文庫