・・・「おッ母さんは?」「芸者の桂庵」「兄さんは?」「勧工場の店番」「姉さんは?」「ないの」「妹は?」「芸者を引かされるはず」「どこにつとめているの?」「大宮」「引かされてどうするの?」「その人の奥・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その時中京商業の大宮校長と知り合った、大宮校長は検事の訊問に答えて次のように陳述している。「……私が最初にあの女に会うたのは昨年の四月の末、覚王山の葉桜を見に行き、『寿』という料亭に上った時です。あの女はあそこの女中だったのです。その時・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ここは人家も少からず、町の彼方に秩父の山々近く見えて如何にも田舎びたれど、熊谷より大宮郷に至る道の中にて第一の賑わしきところなりとぞ。さればにや氷売る店など涼しげによろずを取りなして都めかしたるもあり。とある店に入り、氷に喉の渇を癒して、こ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 汽車は赤羽をすぎ、大宮をすぎ、暗闇の中をどんどん走っていた。ウイスキイの酔もあり、また、汽車の速度にうながされて、嘉七は能弁になっていた。「女房にあいそをつかされて、それだからとて、どうにもならず、こうしてうろうろ女房について廻っ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・このあいだM君と会った時、いつかいっしょに大宮へでも行ってみようかという話をした事を思い出して、とにかく大宮まで行ってみる事にした。絵の具箱へスケッチ板を一枚入れて、それと座ぶとん代わりの古い布切れとを風呂敷で包み隠したのをかかえて市内電車・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 或日突然手紙をよこし、大宮の公園の中の万松庵に居るからすぐ来いという。行った。ところがなかなか綺麗なうちで、大将奥座敷に陣取って威張っている。そうして其処で鶉か何かの焼いたのなどを食わせた。僕は其形勢を見て、正岡は金がある男と思ってい・・・ 夏目漱石 「正岡子規」
・・・「あのう――白岡はまだよっぽど先でござんしょうか」「まだ四ツ五ツ先ですよ」「大宮からよっぽど先でござんしょうか」「大宮から蓮田、白岡です」「そうでございますか」 そして、女性的本能の残留らしい媚をふくんだ調子で婆さん・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・汽車東海道は箱根附近の線路破かいされた為金沢から信越線にゆき、大宮頃迄だろうと云う。鎌倉被害甚しかろうと云うので、国男のこと事ム所の父のことを思い、たまらなし。 九月四日 火曜日 午後四時五十七分福井発。 もう福井駅に、避難・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
・・・ 大宮を過ると、東武線の茶色の電車が、走っている汽車に見る見る追いぬかれながら、におのある榛の木の間、田圃のむこうを通った。まだ短い麦畑の霜どけにぬかるみながら、腹がけをした電信工夫が新しい電柱を立てようとしている作業が目を掠める。・・・ 宮本百合子 「東京へ近づく一時間」
・・・ 午後から良人は福井市に出、大宮までの切符と持って行くべき食糧の鑵詰類を買い入れて来た。役場から、入京に必要だと云う身分証明書を貰った。そして、四日の午後四時五十七分、総ての荷物を郷里に遺し、ただ食糧だけを二人で背負う振り分けの荷に作っ・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
出典:青空文庫