・・・毎晩、私が黙って居ても、夕食のお膳に大きい二合徳利がつけてあって、好意を無にするのもどうかと思い、私は大急ぎで飲むのでありますが、何せ醸造元から直接持って来て居るお酒なので、水など割ってある筈は無し、頗る純粋度が高く、普通のお酒の五合分位に・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・彩色と云っても絵具は雌黄に藍墨に代赭くらいよりしかなかったが、いつか伯父が東京博覧会の土産に水彩絵具を買って来てくれた時は、嬉しくて幾晩も枕元へ置いて寝て、目が覚めるや否や大急ぎで蓋をあけて、しばしば絵具を検査した。夕焼けの雲の色、霜枯れの・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・そこで某殺人事件の種取りを命ぜられた記者は現場に駆けつけて取りあえずその材料を大急ぎでかき集めた上で大急ぎでそれを頭の中のカタログ箱の前に排列してそうしてさし当たっていちばんよいはまりそうな類型のどれかにその材料をはめ込んでしまう。そうする・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・俺達あ食うために働いたんだが、その働きは大急ぎで自分の命を磨り減しちゃったんだ。あの女は肺結核の子宮癌で、俺は御覧の通りのヨロケさ」「だから此女に淫売をさせて、お前達が皆で食ってるって云うのか」「此女に淫売をさせはしないよ。そんなこ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・早くおし。大急ぎだよ。反ッちゃアいけないと言うのにねえ。しッかりおしよ。吉里さん。吉里さん」 お梅はにわかにあわて出し、唐紙へ衝き当り障子を倒し、素足で廊下を駈け出した。 五 平田は臥床の上に立ッて帯を締めかけて・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・もとより厭く事を知らぬ余であるけれども、日の暮れかかったのに驚いていちご林を見棄てた。大急ぎに山を下りながら、遥かの木の間を見下すと、麓の村に夕日の残っておるのが画の如く見えた。あそこいらまではまだなかなか遠い事であろうと思われて心細かった・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・オツベルはもう大急ぎで、四百キロある分銅を靴の上から、穿め込んだ。「うん、なかなかいいね。」象は二あし歩いてみて、さもうれしそうにそう云った。 次の日、ブリキの大きな時計と、やくざな紙の靴とはやぶけ、象は鎖と分銅だけで、大よろこびで・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・ 嘉助は大急ぎで教室をはねだして逃げてしまいました。 風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。 次の日一郎はあのおかしな子供が、きょうからほんとうに学校へ来て本を読ん・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ カンカン火のある火鉢にも手をかざさず、きちんとして居た栄蔵は、フット思い出した様に、大急ぎでシャツの手首のところの釦をはずして、二の腕までまくり上げ紬の袖を引き出した。 久々で会う主婦から、うすきたないシャツの袖口を見られたくなか・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・マリアはその一台を自分の専用にした。 戦傷者で溢れた野戦病院から、放射線治療班の救援を求める通知がキュリー夫人宛にとどく。マリアは大急ぎで自分の車の設備を調べる。兵士の運転手がガソリンをつめている間に、マリアはいつもながらの小さい白カラ・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
出典:青空文庫