・・・ 三〇 大水 僕は大水にもたびたび出合った。が、幸いどの大水も床の上へ来たことは一度もなかった。僕は母や伯母などが濁り水の中に二尺指しを立てて、一分殖えたの二分殖えたのと騒いでいたのを覚えている。それから夜は目を覚ま・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ 人間に対する用意は、まず畳を上げて、襖障子諸財一切の始末を、先年大水の標準によって、処理し終った。並の席より尺余床を高くして置いた一室と離屋の茶室の一間とに、家族十人の者は二分して寝に就く事になった。幼ないもの共は茶室へ寝るのを非常に・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ ですから、水はどんどんあふれ出して、大水のようにあたり一ぱいにひろがりました。王子とあとの二人は、その水の中をさがしまわりました。しかし魚はどこへいったものか、いくらさがしてもかげも見えません。火の目小僧はじれったがって、「おいお・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・ ――川こ大水で、行かえない。 マロサマ、首こかしげて、分別したずおん。なんて歌ったらええべがな、て打って分別して分別して、 ――橋こ架けて飛んで来い。 タキは人魂みんた眼こおかなく燃やし、独りして歌ったずおん。 ――橋・・・ 太宰治 「雀こ」
・・・もう一度は、富士吉田で、私は大水に遭い多少の難儀をした。南伊豆は七月上旬の事で、私の泊っていた小さい温泉宿は、濁流に呑まれ、もう少しのところで、押し流されるところであった。富士吉田は、八月末の火祭りの日であった。その土地の友人から遊びに来い・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・百川所流無量大水。故大海無有増減。とある。大洋特に赤道下の大洋における蒸発作用の旺盛な有様を「詩」で云い現わしたと思えば、うまい云い方である。 寺田寅彦 「断片(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・魂の抜け殼が「大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」と云ったりするであろうか。 和歌の浦の暴風のなかでそのような言葉を嫂からきいて、二郎は、自分がこの時始めて女というものをまだ研究していないことを・・・ 宮本百合子 「漱石の「行人」について」
・・・ 私は生れて一度も大水を見た事はない。 それだのにどうして世界中の滅びる様な洪水を想像出来様。 けれ共、大きな箱舟の中に牛だの馬だの鳩だのと一緒に世界にノアがたった一人決して死なずに、今日も明日もポッカリ、ポッカリと山を越したり・・・ 宮本百合子 「追憶」
出典:青空文庫