・・・と男はさすがに大胆である。 女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事の叶わばこの黄金、この珠玉の飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様である。白き腕のすらりと絹をすべ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・彼は大胆不敵になり、無謀にもただ一人、門を乗り越えて敵の大軍中に跳び降りた。 丁度その時、辮髪の支那兵たちは、物悲しく憂鬱な姿をしながら、地面に趺坐して閑雅な支那の賭博をしていた。しがない日傭人の兵隊たちは、戦争よりも飢餓を恐れて、獣の・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ だんだんは大きく、大胆になって行った。 汽車は滑かに、速に辷った。気持よく食堂車は揺れ、快く酔は廻った。 山があり、林があり、海は黄金色に波打っていた。到る処にがあった。どの生活も彼にとっては縁のないものであった。 彼の反・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・自分はさすがにそれほど大胆ではなかったので、どうも険呑に思われて断行し得なかった。で、依然旧翻訳法でやっていたが、…… 併しそれは以前自分が真面目な頭で、翻訳に従事した頃のことである、近頃のは、いやもうお話しにならない。・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・それでいて、いざとなると、いつも大胆に筆を取ることが出来なくなってしまいました。今日は余り大胆な事をいたすことになりましたので、わたくしは自分で自分に呆れています。さて、当り前なら手紙の初めには、相手の方を呼び掛けるのですが、わたくしにはあ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・あの靄の輪廓に取り巻かれている辺には、大船に乗って風波を破って行く大胆な海国の民の住んでいる町々があるのだ。その船人はまだ船の櫓の掻き分けた事のない、沈黙の潮の上を船で渡るのだ。荒海の怒に逢うては、世の常の迷も苦も無くなってしまうであろう。・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・私が少し大胆になって悪口をしました。「馬鹿。」崖も悪口を返しました。「馬鹿野郎。」慶次郎が少し低く叫びました。 ところがその返事はただごそごそごそっとつぶやくように聞えました。どうも手がつけられないと云ったようにも又そんなやつら・・・ 宮沢賢治 「谷」
・・・ということは、こんにちの社会情勢について、国際情勢について、もっとも多くの知識をもち、歴史的見通しをもった、いわば前衛的な人々が、大胆に権力と対決してゆくというだけの単純なことではありません。「進歩」ということは、その時代の常識の最高の線に・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・きょうの百物語の催しなんぞでからが、いかにも思い切って奇抜な、時代の風尚にも、社会の状態にも頓着しない、大胆な所作だと云わなくてはなるまい。 原来百物語に人を呼んで、どんな事をするだろうかと云う、僕の好奇心には、そう云う事をする男は、ど・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・僕の受けた印象はただ絵の具を駆使し画面を塗り上げて行く大胆な力のみである。そこには技巧がある。看者を釣り込んで行こうとする戯曲家らしい狡計もある。しかし芸術家らしい直観も感情もほとんど認められない。画面全体の効果から言えば、氏の幼稚な趣味が・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫