・・・それは兼ね兼ね彼が欲しがっていた、庇の長い大黒帽だった。するとそれを見た姉のお絹が、来月は長唄のお浚いがあるから、今度は自分にも着物を一つ、拵えてくれろと云い出した。父はにやにや笑ったぎり、全然その言葉に取り合わなかった。姉はすぐに怒り出し・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・十五の年から茶屋酒の味をおぼえて、二十五の前厄には、金瓶大黒の若太夫と心中沙汰になった事もあると云うが、それから間もなく親ゆずりの玄米問屋の身上をすってしまい、器用貧乏と、持ったが病の酒癖とで、歌沢の師匠もやれば俳諧の点者もやると云う具合に・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・へん、大袈裟な真似をしやがって、 と云う声がしたので、見ると大黒帽の上から三角布で頬被りをした男が、不平相にあたりを見廻して居たが、一人の巡査が彼を見おろして居るのに気が附くと、しげしげそれを見返して、唾でも吐き出す様に、・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・舟子は、縞もめんのカルサンをはいて、大黒ずきんをかぶったかわいい老爺である。 ちょっとずきんをはずし、にこにこ笑って予におじぎをした。四方の山々にとっぷりと霧がかかって、うさぎの毛のさきを動かすほどな風もない。重みのあるような、ねばりの・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ましてやその他の月卿雲客、上臈貴嬪らは肥満の松風村雨や、痩身の夷大黒や、渋紙面のベニスの商人や、顔を赤く彩ったドミノの道化役者や、七福神や六歌仙や、神主や坊主や赤ゲットや、思い思いの異装に趣向を凝らして開闢以来の大有頂天を極めた。 この・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・御祖母様は一つでもこれを御忘れなさるということはなかったので、其他にも大黒様だの何だのがあるので、如何な日でも私が遣らなくてはならない務めは随分なものであった。勿論厳格に仕付けられたのだから別に苦労には思わなかったが、兎に角余程早く起き出て・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・即ち狐が持出されたまでで、大黒様(太名牟遅神に鼠よりも縁は遠い話である。けれども早くから稲荷に狐は神使となっている。といってお稲荷様が狐つかいに関係のあろうようはないから、やはりこれは狐に乗っている祇尼天の方から出たことで、祇尼の法をつかう・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ これはたぶん商工業の繁昌を象徴する、例えば西洋の恵比須大黒とでも云ったような神様の像だろうと想像していたが、近頃ある人から聞くと、あれは男女の労働者を象ったものだそうである。これを聞いた時に私は微笑を禁ずる事が出来なかった。 ・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・ 四 そう呟いて善ニョムさんはまた向き直って、肥料を移した手笊を抱えて、調子よく、ヒョイヒョイと掴んで撒きながら、「金の大黒すえてやろ、ホイキタホイ」 麦の芽は、新しく撒かれる肥料の下で、首を振り、顔を覗かし・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・吉原は大江戸の昔よりも更に一層の繁栄を極め、金瓶大黒の三名妓の噂が一世の語り草となった位である。 両国橋には不朽なる浮世絵の背景がある。柳橋は動しがたい伝説の権威を背負っている。それに対して自分は艶かしい意味においてしん橋の名を思出す時・・・ 永井荷風 「銀座」
出典:青空文庫