・・・「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――」「それでも私の病気はね、ただ神経が疲れているのだって、今日も山内先生がそうおっしゃったわ。二三日よく眠りさえすれば、――あら。」 老女は驚いた眼を主人へ挙げた。すると・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・するともう一度後から、「奥様、旦那様は来月中に、御帰りになるそうですよ。」と、はっきり誰かが声をかけた。その時も千枝子はふり向いて見たが、後には出迎えの男女のほかに、一人も赤帽は見えなかった。しかし後にはいないにしても、前には赤帽が二人ばか・・・ 芥川竜之介 「妙な話」
・・・「貴下、まだ奥様はお持ちなさりませんの。」 と女房、胸を前へ、手を畳にす。 織次は巻莨を、ぐいと、さし捨てて、「持つもんですか。」「織さん。」 と平吉は薄く刈揃えた頭を掉って、目を据えた。「まだ、貴下、そんな事を・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・燭が映って、透徹って、いつかの、あの時、夕日の色に輝いて、ちょうど東の空に立った虹の、その虹の目のようだと云って、薄雲に翳して御覧なすった、奥様の白い手の細い指には重そうな、指環の球に似てること。三羽の烏、打傾いて聞きつつあり。・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・いい加減に遊ばっしゃったら、迷児にならずに帰らっしゃいよ、奥様が待ってござろうに。」 と語りもあえず歩み去りぬ。摩耶が身に事なきか。 二 まい茸はその形細き珊瑚の枝に似たり。軸白くして薄紅の色さしたると、樺色・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ 先生には奥様と男のお児が二人、姪のお米、外見を張るだけに女中も居ようというのですもの、お苦しかろうではございませんか。 そこで、茨城の方の田舎とやらに病院を建てた人が、もっともらしい御容子を取柄に副院長にという話がありましたそうで・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・そうするともとからいたずらものなので奥様の手前もはばからないで旦那様にじょうだんしかけいつともなく我物にしてしまった。けれ共奥方は武士の娘なので世に例のある事だからと知らぬ振してすぎて居た。それだのに小吟はいいきになってやめないので家も乱れ・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・知らないものは芸者でもなし、娘さんでもなし、官員さんの奥様らしくもなしと眼をって美貌と美装に看惚れたもんだ。その時分はマダ今ほど夫婦連れ立って歩く習慣が流行らなかったが、沼南はこの艶色滴たる夫人を出来るだけ極彩色させて、近所の寄席へ連れてっ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・彼家じゃ奥様も好い方だし御隠居様も小まめにちょこまかなさるが人柄は極く好い方だし、お清様は出戻りだけに何処か執拗れてるが、然し気質は優しい方だし」と思いつづけて来てハタとお徳の今日昼間の皮肉を回想して「水の世話にさえならなきゃ如彼奴に口なん・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ぞんざいというと非難するように聞えるが、そうではない、シネクネと身体にシナを付けて、語音に礼儀の潤いを持たせて、奥様らしく気取って挨拶するようなことはこの細君の大の不得手で、褒めて云えば真率なのである。それもその道理で、夫は今でこそ若崎先生・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫