・・・ 僕の顔をちらりと見るなり、正に嫣然と一笑したんだ。おやと思ったが間に合わない。こっちは木馬に乗っているんだから、たちまち女の前は通りすぎてしまう。誰だったかなと思う時には、もうわが赤い木馬の前へ、楽隊の連中が現れている。――」 我々は・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・「へん、『嫣然』がいりゃはいるだろう。」「莫迦を言え。」「嫣然」と言うのはここにいるうちに挨拶ぐらいはし合うようになったある十五六の中学生だった。彼は格別美少年ではなかった。しかしどこか若木に似た水々しさを具えた少年だった。ちょ・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・と言って嫣然一笑した。そうして再びエンジンの爆音を立てて威勢よく軽井沢のほうへ走り去ったのであった。 九月初旬三度目に行ったときには宿の池にやっと二三羽の鶺鴒が見られた。去年のような大群はもう来ないらしい。ことしはあひるのコロニーが・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・手を敲けば盃酒忽焉として前に出で財布を敲けば美人嫣然として後に現る。誰かはこれを指して客舎という。かかる客舎は公共の別荘めきていとうるさし。幾里の登り阪を草鞋のあら緒にくわれて見知らぬ順礼の介抱に他生の縁を感じ馬子に叱られ駕籠舁に嘲られなが・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・そばにいる者にききとれない位にかけられた言葉であるけれども、それに応えてその女のひとが瞬間に示した嫣然たる笑みは、元より妻の笑顔ではないし、娘が父への笑い顔でもない。控室はこんな情景も閃くのである。刻々つのって来る人々の動きに押されたように・・・ 宮本百合子 「待呆け議会風景」
出典:青空文庫