・・・お辰は存分に材料を節約したから、祭の日通り掛りに見て、種吉は肩身の狭い想いをし、鎧の下を汗が走った。 よくよく貧乏したので、蝶子が小学校を卒えると、あわてて女中奉公に出した。俗に、河童横町の材木屋の主人から随分と良い条件で話があったので・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・『僕はどうにかしてこの題目で僕の思う存分に書いて見たいと思うている。僕は天下必ず同感の士あることと信ずる。』 その後二年経った。 大津は故あって東北のある地方に住まっていた。溝口の旅宿で初めてあった秋山との交際は全く絶えた。ちょ・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・へ行くと、そこは机でも壁でも一杯に思う存分の落書きがしてある。俺も手紙を書きに行ったときは、必ず何か落書してくることに決めていた。 成る程、俺は独房にいる。然し、決して「独り」ではないんだ。 せき、くさめ、屁 屁・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・と随分、思い切った強いことを言いましたので、ペテロは大あわてにあわて、ああ、ごめんなさい、それならば、私の足だけでなく、手も頭も思う存分に洗って下さい、と平身低頭して頼みいりましたので、私は思わず噴き出してしまい、ほかの弟子たちも、そっと微・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・それで、虻が蜜汁をあさってしまって、後ろ向きにはい出そうとするときに、虻の尻がちょうどおしべの束の内向きに曲がった先端の彎曲部に引っかかり、従って存分に花粉をべたべたと押しつけられる。しかし弱い弾性しか持たぬおしべは虻の努力に押しのけられて・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・ そういう牽制を受ける心配なしに、泣くことの快感だけを存分に味わうための最も便利な方法がすなわち芝居、特にいわゆる大甘物の通俗劇を見物することである。劇中の人物に自己を投射しあるいは主人公を自分に投入することによって、その劇中人物が実際・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・そういう風にして結局とうとう鷹の夢を存分に享楽させてもらっただけで、生きている実在の鷹はとうとう自分のものにならないでおしまいになった。はじめに交換条件で渡した品を返してもらったかもらわなかったか、それは思い出せない。 これなどは幼年時・・・ 寺田寅彦 「鷹を貰い損なった話」
・・・ 字を書くことの上手な人はこういう機会に存分に筆を揮って、自分の筆端からほとばしり出る曲折自在な線の美に陶酔する事もあろうが、彼のごとき生来の悪筆ではそれだけの代償はないから、全然お勤めの機械的労働であると思われる上に、自分の悪筆に対す・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・そのために、正常な天候でさえあれば、夕方の涼風を存分に発達させているということがわかったのであった。それはとにかく、こういう意味で、夕風の涼しさは東京名物の一つであろう。夕食後風呂を浴びて無帽の浴衣がけで神田上野あたりの大通りを吹き抜ける涼・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・彼らは各々その位置に立ち自信に立って、するだけの事を存分にして土に入り、余沢を明治の今日に享くる百姓らは、さりげなくその墓の近所で悠々と麦のサクを切っている。 諸君、明治に生れた我々は五六十年前の窮屈千万な社会を知らぬ。この小さな日本を・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫