・・・その火気を感じると、内蔵助の心には、安らかな満足の情が、今更のようにあふれて来た。丁度、去年の極月十五日に、亡君の讐を復して、泉岳寺へ引上げた時、彼自ら「あらたのし思いははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」と詠じた、その時の満足が帰・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・とにかくわたしの生涯はたといしあわせではないにもしろ、安らかだったのには違いあるまい。」「なるほどそれでは安らかでしょう。」「いや、まだそれだけでは安らかにはならない。わたしは体も丈夫だったし、一生食うに困らぬくらいの財産を持ってい・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・知った者の一人もいない家の、行燈か何かついた奥まった室に、やわらかな夜具の中に緩くり身体を延ばして安らかな眠りを待ってる気持はどうだね。B それあ可いさ。君もなかなか話せる。A 可いだろう。毎晩毎晩そうして新しい寝床で新しい夢を結ぶ・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 僕が迷信の深淵に陥っていた時代は、今から想うても慄然とするくらい、心身共にこれがために縛られてしまい、一日一刻として安らかなることはなかった。眠ろうとするに、魔は我が胸に重りきて夢は千々に砕かれる。座を起とうとするに、足あるいは虫を蹈・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・谷を攀じ、峰にのぼり、森の中をくぐりなどして、杖をもつかで、見めぐるにぞ、盗人の来て林に潜むことなく、わが庵も安らかに、摩耶も頼母しく思うにこそ、われも懐ししと思いたり。「食べやしないんだよ。爺や、ただ玩弄にするんだから。」「それな・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・あのとき、おまえのおだてにのって山の中へ入ってみろ、この大雪に、どうして安らかにねることができるか。おまえのようなうそつきには、宿を貸してやることはできない。」と、牛は追いたてました。 からすは、大雪の中をあてもなく、そこから立ち去った・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・けれど私の心は、此の四辺の静かな裡に一つあって、眠ることも出来なければ、安らかに居ることも出来なかった。この音のない天地を、小さな子供の努力でありながら、掻き乱したい。眠ることの出来ない孤独の我が心を、昵として淋しくしているだけの忍耐が出来・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・ 祈る女の前に賽銭箱、頭の上に奉納提灯、そして線香のにおいが愚かな女の心を、女の顔を安らかにする。 そこで、ほっと一安心して、さて「めをとぜんざい」でも、食べまひょか。 大阪の人々の食意地の汚なさは、何ごとにも比しがたい。いまは・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・故人となってしまった人というならまだしも、七十五歳の高齢とはいえ今なお安らかな余生を送っている人を、その人と一面識もない私が六年前の古い新聞の観戦記事の切り抜きをたよりに何の断りなしに勝手な想像を加えて書いたというだけでも失礼であろう。しか・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・]心を休める余裕や安らかな望みのない私の村の風景がいつか私の身についてしまっていることを私は知った。そして三日の後私はまた私の心を封じるために私の村へ帰って来たのである。 3 私は何日も悪くなった身体を寝床につけてい・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫