・・・斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚の唇をぴりぴりと動かす。「今日のみの縁とは? 墓に堰かるるあの世までも渝らじ」と男は黒き瞳を返して女の顔を眤と見る。「さればこそ」と女は右の手を高く挙げて広げたる掌を竪にランスロットに向ける・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・そうしてその声なり身ぶりなりが自然と安らかに毫も不満を感ぜずに示された型通り旨く合うように練習の結果としてできるではないか。あるいは旧派の芝居を見ても、能の仕草を見ても、ここで足をこのくらい前へ出すとか、また手をこのくらい上へ挙げると一々型・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・ 彼の死に顔は、安らかに見えた。そして、こう云ってるように見えた。「もう、どんな者にも搾られはしない」 これ以上搾取されることが厭になった、と云う訳でもあるまいが、安田の死体が、未だ海の中へ辷り込まない、その夜、一人のセイラ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺めた事はない。嗽いをする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。やがて納豆売が来た。余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の別邸内である・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・心暫くも安らかなるなし、一度梟身を尽して、又新に梟身を得、審に諸の苦患を被りて、又|尽ることなし。」 俄かに声が絶え、林の中はしぃんとなりました。ただかすかなかすかなすすり泣きの声が、あちこちに聞えるばかり、たしかにそれは梟のお経だった・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・常識では、災難と思えるところに、摘発の専門家の手にかかると、法律上犯罪となる条件が見出され得るということは、一般人の信頼を、安らかさに置くよりも、気味わるく思わせる。 もとより悪質な諸犯罪、殺人、お家騒動のからくりに対しては、十分専門家・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・ そういう兇猛な雰囲気のなかで、良人である宮本顕治が地下的生活をしているということはわたしに一刻も安らかなこころを与えなかった。常に不安があった。ほんとに寝ても、醒めても。その上、夫婦の愛情をおとりにし、運動に習熟していない妻であるわた・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・何ぜなら、この丘の空と花との明るさは、巷の恋に代った安らかさを病人に与えるために他ならない。もしも彼らの間に恋の花が咲いたなら、間もなく彼らを取り巻く花と空との明るさはその綿々とした異曲のために曇るであろう。だが、この空と花との美しき情趣の・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・では安らかにおやすみなさい。 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫