・・・狐ではなく、あれも矢張り野良犬であったのかも知れぬと、自然に安堵の色を見せるようになった。もう冬である。「寒くなってから火鉢の掃除する奴があるか。気のきかん者ばかり居る。」と或朝、父の小言が、一家中に響き渡った。 がたんがたんと、戸・・・ 永井荷風 「狐」
・・・と、安岡は失望に似た安堵を感じて、ウトウトした。 と、また、昨夜と同じ人間の体温を頬の辺りに感じた。「確かに寝息をうかがってるんだ!」 だが、彼は今までどおりと同じ調子の寝息を、非常な努力のもとに続けた。 パッと電燈がついた・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・すなわち万民安堵、腹を鼓して足るを知ることなれども、その足るを知るとは、他なし、足らざるを知らざりしのみ。 たとえば往古支那にて、天子の宮殿も、茆茨剪らず、土階三等、もって安しというといえども、その宮殿は真実安楽なる皇居に非ず。かりに帝・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・今日は鼓腹撃壌とて安堵するも、たちまち国難に逢うて財政に窘めらるるときは、またたちまち艱難の民たるべし。いわんや、かの戦争の如き、その最中には実に修羅の苦界なれども、事、平和に帰すれば禍をまぬかるるのみならず、あるいは禍を転じて福となしたる・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・先ず、日本でないところに、戦さがはじまったということで、一つの安堵を得た人々が少くない。つづいて、第二には、こういう風に、実際たたかいがはじまったからには、あんまり平和について理屈っぽいことなど語らないで、目立たず、少しでも特需景気の恩沢を・・・ 宮本百合子 「戦争はわたしたちからすべてを奪う」
・・・ と云いながら安堵した様子をかくさず、袂から懐紙の四つに畳んだのを出してくれる。私は、それをとりながら母の顔を見て、お母さま、間違えたな、吝ん坊! と大笑いした。私の勢こんだ様子で、母は小遣いをくれというのかと思って警戒するのであった。・・・ 宮本百合子 「母」
・・・のとし子の心持も私を或る実感で打ったし、女中という、都会の小市民の家庭の中での一つの役割とその型とになかなかはまれず、主婦としての民子は、やっと一ヵ月も経って、とし子の態度が軟らかくなって来たのに些か安堵するというところも、はっきり都会の主・・・ 宮本百合子 「村からの娘」
・・・殉死した人たちは皆安堵して死につくという心持ちでいたのに、数馬が心持ちは苦痛を逃れるために死を急ぐのである。乙名島徳右衛門が事情を察して、主人と同じ決心をしたほかには、一家のうちに数馬の心底を汲み知ったものがない。今年二十一歳になる数馬のと・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・御臨終の砌、嫡子六丸殿御幼少なれば、大国の領主たらんこと覚束なく思召され、領地御返上なされたき由、上様へ申上げられ候処、泰勝院殿以来の忠勤を思召され、七歳の六丸殿へ本領安堵仰附けられ候。 某は当時退隠相願い、隈本を引払い、当地へ罷越候え・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・沈着で口数をきかぬ、筋骨逞しい叔父を見たばかりで、姉も弟も安堵の思をしたのである。「まだこっちではお許は出んかい」と、九郎右衛門は宇平に問うた。「はい。まだなんの御沙汰もございません。お役人方に伺いましたが、多分忌中だから御沙汰がな・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫