・・・ 次ぎにもう一つ例を挙げれば、今人は誰も古人のように幽霊の実在を信ずるものはない。しかし幽霊を見たと云う話は未に時々伝えられる。ではなぜその話を信じないのか? 幽霊などを見る者は迷信に囚われて居るからである。ではなぜ迷信に捉われているの・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・一年前までは唯一実在だの最高善だのと云う語に食傷していたのだから。B 今じゃあアートマンと云う語さえ忘れかけているぜ。A 僕もとうに「ウパニシャッドの哲学よ、さようなら」さ。B あの時分はよく生だの死だのと云う事を真面目になって・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・ それとも又何かの機会に実在の世界へも面かげを見せる超自然の力の仕業であろうか?三 僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、僕の父にも冷淡だった。僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新らし・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・人が思考する瞬間、行為する瞬間に、立ち現われた明確な現象で、人力をもってしてはとうてい無視することのできない、深奥な残酷な実在である。七 我らはしばしば悲壮な努力に眼を張って驚嘆する。それは二つの道のうち一つだけを選み取って・・・ 有島武郎 「二つの道」
いかなる主義と雖も現実から出発していないものはない。現実を有りのまゝの静止したもの、固定したものと見做すのが間違っている。現実はどうともすることの出来ない客観的の実在であると同時に、また極めて主観的な実在である。我々が懐く凡ゆる感情、・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・という作品は、全部架空の話だが、これを読者に実在と想わせるのが成功だろうか、架空と想わせるのが成功だろうか、むつかしい問題だ。 これからの文学は、五十代、四十代、三十代、二十代……とはっきりわけられる特徴をそれぞれ持つようになるだろ・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
・・・ 彼はヘーゲルが概念をもって真の実在としたのをひるがえして、われわれの感官に与えられた自然をもって実在とした。マルクスはさらに進んで意識を自然の反映であるとし、道徳は経済関係の上部構造としての二次的のものにすぎないとした。生産関係はそれ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・これは私の戸籍名なのであるが、下手に仮名を用いて、うっかり偶然、実在の人の名に似ていたりして、そのひとに迷惑をかけるのも心苦しいから、そのような誤解の起らぬよう、私の戸籍名を提供するのである。 津島の勤め先は、どこだっていい。所謂お役所・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・けれども、実在の、つつましい生活人を描くに当って、それ相応のこまかい心遣いの必要な事も無論である。あの人たちには、私の描写に対して訂正を申込み給う機会さえ無いのだから。 私は絶対に嘘を書いてはいけない。 中畑さんも北さんも、共に、か・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・然し、ここには近代青年の『失われたる青春に関する一片の抒情、吾々の実在環境の亡霊に関する、自己証明』があります。然し、ぼくは薄暗く、荒れ果てた広い草原です。ここかしこ日は照ってはいましょう。緑色に生々と、が、なかには菁々たる雑草が、乱雑に生・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫