・・・その拍子に障子の外の竪川へ、誰とも知れず身を投げた、けたたましい水音が、宵闇を破って聞えたそうです。これに荒胆を挫がれた新蔵は、もう五分とその場に居たたまれず、捨台辞を残すのもそこそこで、泣いているお敏さえ忘れたように、蹌踉とお島婆さんの家・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・初の烏 あの、(口籠今夜はどういたしました事でございますか、私の形……あの、影法師が、この、野中の宵闇に判然と見えますのでございます。それさえ気味が悪うございますのに、気をつけて見ますと、二つも三つも、私と一所に動きますのでございますも・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 偶と紫玉は、宵闇の森の下道で真暗な大樹巨木の梢を仰いだ。……思い掛けず空から呼掛けたように聞えたのである。「ちょっと燈を、……」 玉野がぶら下げた料理屋の提灯を留めさせて、さし交す枝を透かしつつ、――何事と問う玉江に、「誰・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・何事が起ったかと胸に動悸をはずませて帰って見ると、宵闇の家の有様は意外に静かだ。台所で家中夕飯時であったが、ただそこに母が見えない許り、何の変った様子もない。僕は台所へは顔も出さず、直ぐと母の寝所へきた。行燈の灯も薄暗く、母はひったり枕に就・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 昔はやった「宵闇せまれば悩みは果てなし……」という歌にも似た女だと、うっかり彼女に言い寄って、ひどい目に会う学生が多い――それほどお加代は若い男の心をそそる魅力を持っていた。 それかあらぬか、仲間の男たちは、「ヒンブルの加代の・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・という生れて始めてのものを飲んで新しい感覚の世界を経験したのはよかったが、井戸端の水甕に冷やしてあるラムネを取りに行って宵闇の板流しに足をすべらし泥溝に片脚を踏込んだという恥曝しの記憶がある。 その翌年は友人のKと甥のRと三人で同じ種崎・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・燈火の乏しい樹木の多い狭い町ばかりのこのへんの宵闇は暗かった。めったに父と二人で出る事のない子供は何かしら改まった心持ちにでもなっているのか、不思議に黙っていた。私も黙っていた。ある家の前まで来ると不意に「山本さんの……セツ子さんのおうちは・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・風のないけむったような宵闇に、蝙蝠を呼ぶ声が対岸の城の石垣に反響して暗い川上に消えて行く。「蝙蝠来い。水飲ましょ。そっちの水にがいぞ」とあちらこちらに声がして時々竹ざおの空を切る力ない音がヒューと鳴っている。にぎやかなよ・・・ 寺田寅彦 「花物語」
一日じめじめと、人の心を腐らせた霧雨もやんだようで、静かな宵闇の重く湿った空に、どこかの汽笛が長い波線を引く。さっきまで「青葉茂れる桜井の」と繰り返していた隣のオルガンがやむと、まもなく門の鈴が鳴って軒の葉桜のしずくが風の・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・俄かな宵闇に広告塔のイルミネイションや店頭の明りばかり目立ち、通行人の影は薄墨色だ。模糊とした雑踏の中を、はる子は郊外電車の発着所に向いて歩いていた。そこは、市電の終点で、空の引かえしが明るく車内に電燈を点して一二台留っていた。立ち話をして・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
出典:青空文庫