・・・ 四 渠は稲田雪次郎と言う――宿帳の上を更めて名を言った。画家である。いくたびも生死の境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」――その上・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・そこは、田舎ものでも、大勢お客様をお見かけ申しておりますから、じきにくろうと衆だと存じましたのでございまして、これが柳橋の蓑吉さんという姐さんだったことが、後に分かりました。宿帳の方はお艶様でございます。 その御婦人を、旦那――帳場で、・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・と堅く口止をしました上で、宿帳のお名のすぐあとへ……あの、申訳はありませんが、おなじくと……画家 (微に眉を顰保養に来る場所ですから、そんな悪戯もいいでしょうな――失礼します。夫人 あれ、先生、お怒りも遊ばさないで……画家 綺麗・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・岡村はそういって、宿屋の帳附けが旅客の姓名を宿帳へ記入し、跡でお愛想に少許り世間話をして立去るような調子に去って終った。 予は彼が後姿を見送って、彼が人間としての変化を今更の如くに気づいた。若い時代の情熱などいうもの今の彼には全く無いの・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・それから宿帳を記けておくれな。」と肩先を揺る。 私は睡ったふりもしていられぬので、余儀なく返事をして顔を挙げた。そして上さんのさしだす宿帳と矢立とを取って、まずそれを記してから、「その……宿代だが、明朝じゃいかんでしょうか。」「・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 女中と入れかわって、番頭が宿帳をもって来た。書き終ってふと前の頁を見ると、小谷治 二十九歳。妻糸子 三十四歳――という字がぼんやり眼にはいった。数字だけがはっきり頭に来た。女の方が年上だなと思いながら、宿帳を番頭にかえした。「蜘蛛・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 秋の夜、目の鋭いみすぼらしい男が投宿した。宿帳には下手糞な字で共産党員と書き、昨日出獄したばかりだからとわざと服装の言訳して、ベラベラとマルキシズムを喋ったが、十年入獄の苦労話の方はなお実感が籠り、父親は十年に感激して泣いて文子の婿に・・・ 織田作之助 「実感」
・・・ 小沢の名を知っているのは、さっき宿帳に書く時、覗いていたからであろうが、それにしても、いきなり自分の名を云ったので、小沢はちょっと意外だった。 もっとも、この驚きには甘い喜びが、あえかにあった。 復員者の小沢は、久しく自分の名・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 私は、その夜、番頭の持って来た宿帳に、ある新進作家の名前を記入した。年齢二十八歳。職業は著述。 三 二三日ぶらぶらしているうちに、私にも、どうやら落ちつきが出て来た。ただ、名前を変えたぐらい、なんの罪があ・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさは在っても、めったに言わない。以前にまさる苦しさは在っても私は微笑を装っている。ばか共は、私を俗化したと言っている。毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は・・・ 太宰治 「東京八景」
出典:青空文庫