・・・其点がはっきりしてこそ、早苗が、只、敵方に騙り寄せられた城将の妻が古来幾度か繰返したような自裁を決行したのか、又は彼女が云うように、国や命を賭けた戦を、彼女の命で裁かれたのか、歴然と一方に事実として照し出されたのではあるまいかと思うのである・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。 五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・女の子が母親の差し出す箸の先へ口を寄せていくと、灸の口も障子の破れ目の下で大きく開いた。 灸はふとまだ自分が御飯を食べていないことに気がついた。彼は直ぐ下へ降りていった。しかし、彼の御飯はまだであった。灸は裏の縁側へ出て落ちる雨垂れの滴・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・宮廷には父王とその千人の妃があり、それに対して新王は、恋愛のことにははなはだ理想主義的であって、理想の女のほかには妃嬪を寄せつけない。ついに新王は、さまざまの冒険の後に、理想の王女を遠い異国から連れてくる。この美しい妃が女主人公なのである。・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫