・・・乳母の懐に抱かれて寝る大寒の夜な夜な、私は夜廻の拍子木の、如何に鋭く、如何に冴えて、寝静った家中に遠く、響き渡るのを聞いたであろう。ああ、夜ほど恐いもの、厭なものは無い。三時の茶菓子に、安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に、飯事の遊・・・ 永井荷風 「狐」
・・・遥なる頭の上に見上げる空は、枝のために遮られて、手の平ほどの奥に料峭たる星の影がきらりと光を放った時、余は車を降りながら、元来どこへ寝るのだろうと考えた。「これが加茂の森だ」と主人が云う。「加茂の森がわれわれの庭だ」と居士が云う。大樹を・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ 彼とベッドを並べて寝る深谷は、その問題についてはいつも口を緘していた。彼にはまるで興味がないように見えた。 どちらかといえば、深谷のほうがこんな無気味な淋しい状態からは、先に神経衰弱にかかるのが至当であるはずだった。 色の青白・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・数日前から夜ごとに来て寝る穴が、幸にまだ誰にも手を附けられずにいると云うことが、ただ一目見て分かった。古い車台を天井にして、大きい導管二つを左右の壁にした穴である。 雪を振り落してから、一本腕はぼろぼろになった上着と、だぶだぶして体に合・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・そんなら庭から往来へ出る処の戸を閉めてしまって、お前はもう寝るが好い。己には構わないでも好いから。家来。いえ、そのお庭の戸は疾くに閉めてあるのでございますから、気味が悪うございます。何しろ。主人。どうしたと。家来。ははあ、また出・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・を辞し弟に負て身三春 本をわすれ末を取接木の梅故郷春深し行々て又行々 楊柳長堤道漸くくれたり矯首はじめて見る故園の家黄昏戸に倚る白髪の人弟を抱き我を待春又春君不見古人太祇が句藪入の寝るやひとりの親の側 なおこのほ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・玉は僕持って寝るんだからください」 兎のおっかさんは玉を渡しました。ホモイはそれを胸にあててすぐねむってしまいました。 その晩の夢の奇麗なことは、黄や緑の火が空で燃えたり、野原が一面黄金の草に変ったり、たくさんの小さな風車が蜂のよう・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・安心して寝る家を確保しなければならない。人間らしい気品の保てる経済条件がなければならない。 本当に深く人生を考えて見れば、今の社会に着物一つを問題にしてもやはり決して不可能ではない未来の一つの絵図として本当に糸を紡いで織ったり染めたりし・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・ 若先生に見て戴くのだからと断って、佐藤が女に再び寝台に寝ることを命じた。女は壁の方に向いて、前掛と帯と何本かの紐とを、随分気長に解いている。「先生が御覧になるかも知れないと思って、さっきそのままで待っているように云っといたのですが・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・実は夜寝ることも出来なかったのです。あのころはわたくしむやみにあなたを思っていたでしょう。そこで馬鹿らしいお話ですが、何度となく床から起きて、鏡の前へ自分の顔を見にいったのですね。わたくしも自分がかなり風采の好い男だとは思っていました。しか・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
出典:青空文庫