・・・ 慎太郎がこう云いかけると、いつか襖際へ来た看護婦と、小声に話していた叔母が、「慎ちゃん。お母さんが呼んでいるとさ。」と火鉢越しに彼へ声をかけた。 彼は吸いさしの煙草を捨てると、無言のまま立ち上った。そうして看護婦を押しのけるよ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 子爵は小声でこう云いながら、細い杖の銀の握りで、硝子戸棚の中の絵をさし示した。私は頷いた。雲母のような波を刻んでいる東京湾、いろいろな旗を翻した蒸汽船、往来を歩いて行く西洋の男女の姿、それから洋館の空に枝をのばしている、広重めいた松の・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ と小声で言った。「まだ、お寝ってです。」 起きるのに張合がなくて、細君の、まだ裸体で柏餅に包まっているのを、そう言うと、主人はちょっと舌を出して黙って行く。 次のは、剃りたての頭の青々とした綺麗な出家。細面の色の白いのが、・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 小宮山は冷たい汗が流れるばかり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、と隣で操り進む百万遍の声。「姐さん、姐さん、」 小声で呼んでみたが返事がないので、もしやともう耐らず、夜具の上から揺振りました。「お雪さん・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・清さんはお袋と小声でぺちゃくちゃ話している。満蔵はあくびをしながら、「みんな色気があるからだめだ。省作さんがいれば、おとよさんもはま公も唄もうたわねいだもの」 満蔵は臆面もなくそんなことを言って濁笑いをやってる。実際満蔵の言うとおり・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・民子は狐鼠狐鼠と僕の所へ這入ってきて、小声で、私は内に居るのが一番面白いわと云ってニッコリ笑う。僕も何となし民子をばそんな所へやりたくなかった。 僕が三日置き四日置きに母の薬を取りに松戸へゆく。どうかすると帰りが晩くなる。民子は三度も四・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・と、ちょいと」と、手招ぎをしたので、僕は首を出して、「なんだ」と、大きな声を出した。「静かにおしよ」と、かの女は僕を制して、「あれが田島よ」と、小声。 なるほど、ちょっと小意気だが、にやけたような男の通って行くよこ顔が見えた。男・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・と、三人の後方から小声にいったものがありました。三人はびっくりして後ろの方を振り向くと、空色の着物をきた子供が、どこからかついてきました。みなはその子供をまったく知らなかったのです。「このじいさんは、人さらいかもしれない。」と、その子供・・・ 小川未明 「空色の着物をきた子供」
・・・と、雲突くばかりの大男は、腰をかがめて小声でいった。「ああ、電信柱か、なんでいまごろ歩くのだ。」と、妙な男は聞いた。 電信柱はいうに、昼間は人通りがしげくて、俺みたいな大きなものが歩けないから、いまごろいつも散歩するのに定めている、・・・ 小川未明 「電信柱と妙な男」
・・・ そして、小声で落語を語りだすと、ミネ子ははじめ面白そうに聴いていたが、しかし直ぐシクシクと泣きだした。赤井の声も次第に涙を帯びて来て、半泣きの声になり、もうあとが続かなかった。そんな心の底に、生死もわからぬ妻子のことがあった。「お・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
出典:青空文庫