・・・明日はちょうど一月に一度あるお君さんの休日だから、午後六時に小川町の電車停留場で落合って、それから芝浦にかかっている伊太利人のサアカスを見に行こうと云うのである。お君さんは今日までに、未嘗男と二人で遊びに出かけた覚えなどはない。だから明日の・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・六金さんのほかにも、柳橋のが三人、代地の待合の女将が一人来ていたが、皆四十を越した人たちばかりで、それに小川の旦那や中洲の大将などの御新造や御隠居が六人ばかり、男客は、宇治紫暁と云う、腰の曲った一中の師匠と、素人の旦那衆が七八人、その中の三・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・橋杭ももう痩せて――潮入りの小川の、なだらかにのんびりと薄墨色して、瀬は愚か、流れるほどは揺れもしないのに、水に映る影は弱って、倒に宿る蘆の葉とともに蹌踉する。 が、いかに朽ちたればといって、立樹の洞でないものを、橋杭に鳥は棲むまい。馬・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・牡丹の根へ毒を絞って、あの小川をのみ干そうか。 もうとても……大慈大悲に、腹帯をお守り下さいます、観音様の前には、口惜くって、もどかしくって居堪らなくなったんですもの。悪念、邪心に、肝も魂も飛上って……あら神様で、祟の鋭い、明神様に、一・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・外の小川にはところどころ隈取りを作って芹生が水の流れを狭めている。燕の夫婦が一つがい何か頻りと語らいつつ苗代の上を飛び廻っている。かぎろいの春の光、見るから暖かき田圃のおちこち、二人三人組をなして耕すもの幾組、麦冊をきるもの菜種に肥を注ぐも・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・おまけに、そこから敵の砲塁までは小川もなく、樹木もなく、あった畑の黍は、敵が旅順要塞に退却の際、みな刈り取ってしもたんや。一歩踏み出せば、もう、直ぐ敵弾の餌食は覚悟せにゃならん。聨隊長はこの進軍に反対であったんやけど、止むを得ん上官の意志で・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 今なら三千円ぐらいは素丁稚でも造作もなく儲けられるが、小川町や番町あたりの大名屋敷や旗下屋敷が御殿ぐるみ千坪十円ぐらいで払下げ出来た時代の三千円は決して容易でなかったので、この奇利を易々と攫んだ椿岳の奇才は天晴伊藤八兵衛の弟たるに恥じ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ その頃私は神田小川町に下宿していた。忌々しくてならないので、帰ると直ぐ「鴎外を訪うて会わず」という短文を書いて、その頃在籍していた国民新聞社へ宛ててポストへ入れに運動かたがた自分で持って出掛けた。で、直ぐ近所のポストへ投り込んでからソ・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・このとき、飴チョコの天使は、あの子供らは、飴チョコを買って、自分をあの小川に流してくれたら、自分は 水のゆくままに、あちらの遠いかすみだった山々の間を流れてゆくものを空想したのであります。 しかし、おかみさんが、いつかいったように、百姓・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・また、いつもさらさらといって流れている小川の水も、止まって動きませんでした。みんな寒さのために凍ってしまったのです。そして、田の面には、氷が張っていました。「地球の上は、しんとしていて、寒そうに見えるな。」と、このとき、星の一つがいいま・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
出典:青空文庫