・・・碌に小袖一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の大切だった、そのお米のなかった時も、煙草も買ってあげないでさ。 後で聞いて口惜くって、今でも怨んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの御容子で・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 薄手のお太鼓だけれども、今時珍らしい黒繻子豆絞りの帯が弛んで、一枚小袖もずるりとした、はだかった胸もとを、きちりと紫の結目で、西行法師――いや、大宅光国という背負方をして、樫であろう、手馴れて研ぎのかかった白木の細い……所作、稽古の棒・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ と蠢かいて言った処は、青竹二本に渡したにつけても、魔道における七夕の貸小袖という趣である。 従七位の摂理の太夫は、黒痘痕の皺を歪めて、苦笑して、「白痴が。今にはじめぬ事じゃが、まずこれが衣類ともせい……どこの棒杭がこれを着るよ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・設の蒲団敷重ねしに、摩耶はあらで、その藤色の小袖のみ薫床しく乗せられたり。記念にとて送りけむ。家土産にしたるなるべし。その小袖の上に菊の枝置き添えつ。黒き人影あとさきに、駕籠ゆらゆらと釣持ちたる、可惜その露をこぼさずや、大輪の菊の雪なすに、・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・黒繻子の襟のかかった縞の小袖に、ちっとすき切れのあるばかり、空色の絹のおなじ襟のかかった筒袖を、帯も見えないくらい引合せて、細りと着ていました。 その姿で手をつきました。ああ、うつくしい白い指、結立ての品のいい円髷の、情らしい柔順な髱の・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ ……そのお千には、もう疾に、羽織もなく、下着もなく、膚ただ白く縞の小袖の萎えたるのみ。 宗吉は、跣足で、めそめそ泣きながら後を追った。 目も心も真暗で、町も処も覚えない。颯と一条の冷い風が、電燈の細い光に桜を誘った時である。・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ と、もう縞の小袖をしゃんと端折って、昼夜帯を引掛に結んだが、紅い扱帯のどこかが漆の葉のように、紅にちらめくばかり。もの静な、ひとがらな、おっとりした、顔も下ぶくれで、一重瞼の、すっと涼しいのが、ぽっと湯に染まって、眉の優しい、容子のい・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・惣菜ものの蜆さえ、雛の御前に罷出れば、黒小袖、浅葱の襟。海のもの、山のもの。筍の膚も美少年。どれも、食ものという形でなく、菜の葉に留まれ蝶と斉しく、弥生の春のともだちに見える。…… 袖形の押絵細工の箸さしから、銀の振出し、という華奢なも・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・小紋の小袖に丸帯と思えば、寺には、よき人の嫁ぐならいがある。――あとで思うとそれも朧である。あの、幻の道具屋の、綺麗な婦のようでもあったし、裲襠姿振袖の額の押絵の一体のようにも思う。…… 瞬間には、ただ見られたと思う心を、棒にして、前後・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 黒小袖の肩を円く、但し引緊めるばかり両袖で胸を抱いた、真白な襟を長く、のめるように俯向いて、今時は珍らしい、朱鷺色の角隠に花笄、櫛ばかりでも頭は重そう。ちらりと紅の透る、白襟を襲ねた端に、一筋キラキラと時計の黄金鎖が輝いた。 上が・・・ 泉鏡花 「露肆」
出典:青空文庫