・・・汁粉であるか煮小豆であるか眼前に髣髴する材料もないのに、あの赤い下品な肉太な字を見ると、京都を稲妻の迅かなる閃きのうちに思い出す。同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜のごとく干枯びて死んでしまった。――提灯はいまだに暗い軒下にぶらぶらし・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・の中にたのしみは木芽にやして大きなる饅頭を一つほほばりしときたのしみはつねに好める焼豆腐うまく烹たてて食せけるときたのしみは小豆の飯の冷たるを茶漬てふ物になしてくふ時 多言するを須いず、これらの歌が曙覧ならざる人の口・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・三椀の雑煮かふるや長者ぶり少年の矢数問ひよる念者ぶり鶯のあちこちとするや小家がち小豆売る小家の梅の莟がち耕すや五石の粟のあるじ顔燕や水田の風に吹かれ顔川狩や楼上の人の見知り顔売卜先生木の下闇の訪はれ顔・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・屋根がトタンだから、風が吹いて雨が靡くとバラバラ、小豆を撒くような音がした。さもなければザッ、ザッ、気味悪くひどい雨音がする。一太は、小学校へ一年行ったぎりで仮名も碌に知らなかった。雑誌などなかったから、一太は寝転んだまま、小声で唐紙を読ん・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・しまいに掌、足のうら、唇のまわりだけのこして、全身がゆで小豆の中におっこちた人形のようになった。そして、監房の中で昏倒し、昏睡状態で家へ運ばれた。 二日ほどして意識が恢復しはじめた。最初の短い覚醒の瞬間、ひろ子は奇体な、うれしいものを見・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・そうして並木をぬけ、長く続いた小豆畑の横を通り、亜麻畑と桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、緑色の森は、漸く溜った馬の額の汗に映って逆さまに揺らめいた。 十 馬車の中では、田舎紳士の饒舌が、早くも人々を五年以来・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫