・・・「イヤ少なくとも僕の恋はそうであった」と近藤は言い足した。「君でも恋なんていうことを知っているのかね」これは井山の柄にない言草。「岡本君の談話の途中だが僕の恋を話そうか? 一分間で言える、僕と或少女と乙な中になった、二人は無我夢・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・もし僕が八歳の時父母とともに東京に出ていたならば、僕の今日はよほど違っていただろうと思う。少なくとも僕の知恵は今よりも進んでいたかわりに、僕の心はヲーズヲース一巻より高遠にして清新なる詩想を受用しうることができなかっただろうと信ずる。 ・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君にもあるだろう。』 秋山は黙ってうなずいた。『僕が十九の歳の春の半ごろと記憶しているが、少し体躯の具合が悪いのでしばらく保養する気で東京の学校を退いて国へ帰・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・とは相違した立場であるが、それにもかかわらず、深い内面性と健やかな合理的意志と、ならびに活きた人生の生命的交感とをもって、よく倫理学の本質的に重要な諸根本問題をとりあげその解決、少なくとも解決の示唆を与えているからである。この本は生の臭覚の・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・自然から美しく創りなされて、自分たちを誘うような、少なくとも待ってるように見えるこの人間群は。 彼女たちは自分たちよりつつましく、優美に造られているようである。粗暴と邪悪とを知らぬかのようだ。自分たちより脆くできてはいるが、品が高そうだ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・芸術上の仕事には種々な経験が豊かなほどいいのだが、身体が弱ければ生活が狭くなる。少なくともかなりな程度の健康を保つことを常に心掛けなくてはならない。それには、一、十一時以後は必ず夜更かしせぬこと。二、寝床のなかで物を考えぬこと。この二つだけ・・・ 倉田百三 「芸術上の心得」
・・・ 六十日目に始めてみる街、そしてこれから少なくとも二年間は見ることのない街、――俺は自動車の両側から、どんなものでも一つ残らず見ておかなければならないと思った。 麹町何丁目――四谷見付――塩町――そして新宿……。その日は土曜日で、新・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・あるいは百年千年の後には、その方が一層幸福な生存状態を形づくるかも知れないが、少なくともすぐ次の将来における自己の生というものが威嚇される。単身の場合はまだよいが、同じ自己でも、妻と拡がり子と拡がった場合には、いよいよそれが心苦しくなる。つ・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・の人は、その乗車時間を、楽しむ、とまでは言えないかも知れないが、少なくとも、観念出来る。 この観念出来るということは、恐ろしいという言葉をつかってもいいくらいの、たいした能力である。人はこの能力に戦慄することに於て、はなはだ鈍である。・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・苦しいには違いないが、さらに大なる苦痛に耐えなければならぬと思う努力が少なくともその苦痛を軽くした。一種の力は波のように全身に漲った。 死ぬのは悲しいという念よりもこの苦痛に打ち克とうという念の方が強烈であった。一方にはきわめて消極的な・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫