・・・その内にもう秋風が立って、城下の屋敷町の武者窓の外には、溝を塞いでいた藻の下から、追い追い水の色が拡がって来た。それにつれて一行の心には、だんだん焦燥の念が動き出した。殊に左近は出合いをあせって、ほとんど昼夜の嫌いなく、松山の内外を窺って歩・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ やがて彼れは松川の屋敷に這入って行った。農場の事務所から想像していたのとは話にならないほどちがった宏大な邸宅だった。敷台を上る時に、彼れはつまごを脱いでから、我れにもなく手拭を腰から抜いて足の裏を綺麗に押拭った。澄んだ水の表面の外に、・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・特に桃の花を真先に挙げたのは、むかしこの一廓は桃の組といった組屋敷だった、と聞くからである。その樹の名木も、まだそっちこちに残っていて麗に咲いたのが……こう目に見えるようで、それがまたいかにも寂しい。 二条ばかりも重って、美しい婦の虐げ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎の樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森で村じゅうから羨ましがられ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・もらい世を渡る事が下手でない聟だと大変よろこび契約の盃事まですんでから此の男の耳の根にある見えるか見えないかほどのできもののきずを見つけていやがり和哥山の祖母の所へ逃げて行くと家にも置かれないので或る屋敷の腰元にやった。そうするともとからい・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲の用事は何でも引受ける重宝人であった。その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・三郎が我が家から程隔たったところを歩いていますと、ある大きな屋敷がありまして、その門の前を通りますと、門の中で子供らと犬とが遊んでいました。 三郎はふとのぞきますと、なんで自分が一日も忘れなかったほどにかわいがっていたボンを忘れることが・・・ 小川未明 「少年の日の悲哀」
・・・元は佃島の者で、ここへ引っ越して来てからまだ二年ばかりにもならぬのであるが、近ごろメッキリ得意も附いて、近辺の大店向きやお屋敷方へも手広く出入りをするので、町内の同業者からはとんだ商売敵にされて、何のあいつが吉新なものか、煮ても焼いても食え・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ そのころ、西国より京・江戸へ上るには、大阪の八軒屋から淀川を上って伏見へ着き、そこから京へはいるという道が普通で、下りも同様、自然伏見は京大阪を結ぶ要衝として奉行所のほかに藩屋敷が置かれ、荷船問屋の繁昌はもちろん、船宿も川の東西に数十・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ そこは昔の士の屋敷跡のように思えた。畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があったり南瓜が植えてあったり紫蘇があったりした。城の崖からは太い逞しい喬木や古い椿が緑の衝立を作っていて、井戸はその蔭に坐っていた。 大きな井桁、堂々とし・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫