・・・というのが、岩――の士族屋敷ではこの「ひげ」の生まれない前のもっと前からすでに気味の悪いところになっているので幾百年かたって今はその根方の周囲五抱えもある一本の杉が並木善兵衛の屋敷の隅に聳ッ立ッていてそこがさびしい四辻になっている。 善・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ 彼は与助には気づかぬ振りをして、すぐ屋敷へ帰って、杜氏を呼んだ。 杜氏は、恭々しく頭を下げて、伏目勝ちに主人の話をきいた。「与助にはなんぼ程貸越しになっとるか?」と、主人は云った。「へい。」杜氏は重ねてお辞儀をした。「今月・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・帰る時も舟から直に本所側に上って、自分の屋敷へ行く、まことに都合好くなっておりました。そして潮の好い時には毎日のようにケイズを釣っておりました。ケイズと申しますと、私が江戸訛りを言うものとお思いになる方もありましょうが、今は皆様カイズカイズ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・贔屓のお屋敷から迎いを受けても参りません。其の癖随分贅沢を致しますから段々貧に迫りますので、御新造が心配をいたします。なれども当人は平気で、口の内で謡をうたい、或はふいと床から起上って足踏をいたして、ぐるりと廻って、戸棚の前へぴたりと坐った・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・いよいよみんなに暇乞いして停車場の方へ行く時が来て見ると、住慣れた家を離れるつもりであの小山の古い屋敷を出て来た時の心持がはっきりとおげんの胸に来た。その時こそ、おげんはほんとうに一切から離れて自分の最後の「隠れ家」を求めに行くような心地も・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ おかあさんは鳩の歌に耳をかたむけて、その言うことばがよくわかっていたのですから、この屋敷を出て行くにつけても行く先が知れていました。 重い手かごを門の外に置いて、子どもを抱き上げて、自分と海岸との間に横たわる広野をさしておかあさん・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ふたり共、それをちゃんと意識していて、お酒に酔ったとき、掛合いで左団次松蔦の鳥辺山心中や皿屋敷などの声色を、はじめることさえ、たまにはありました。 そんなとき、二階の西洋間のソファにひとり寝ころんで、遠く兄たち二人の声色を聞き、けッと毒・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・士族屋敷にも行けば、かれの住んでいた家の址にもつれていってくれた。 で、その足で、熊谷町まで車を飛ばした。例の用水に添った描写は、この時に写生したものである。それから萩原君を、町の通りの郵便局に訪ねた。ちょうど、執務中なので、君の家の泉・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・ 見知らぬ広い屋敷の庭に大きな池がある。大きな船が浮んでいる。それが船のようでもあり座敷のようでもある。天井がない。今に雨が降り出すと困るがと思っていると、自分がいつの間にかその船に乗って天幕を張ろうとしている。それが自分のようでもあり・・・ 寺田寅彦 「御返事(石原純君へ)」
・・・中には宏大な門構えの屋敷も目についた。はるか上にある六甲つづきの山の姿が、ぼんやり曇んだ空に透けてみえた。「ここは山の手ですか」私は話題がないので、そんなことを訊いてみた。もちろん私一箇としては話題がありあまるほどたくさんあった。二人の・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫