・・・これは相も悉皆崩れていたという話でね。」 爺さんはそこまで話して来ると、目を屡瞬いて、泣面をかきそうな顔を、じっと押堪えているらしく、皺の多い筋肉が、微かに動いていた。煙管を持つ手や、立てている膝頭のわなわな戦いているのも、向合っている・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・鋸でゴシゴシ切っておく、水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑といわず横坑といわず廃坑といわず知らぬ間に水が廻って、廻り切ったと思うと、俄然鉱山の敷地が陥落をはじめて、建物も人も恐ろしい勢を以て瞬く間に総崩れに陥ち込んでしまった、ということが書・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・家康公の母君の墓もあれば、何とやらいう名高い上人の墓もある……と小さい時私は年寄から幾度となく語り聞かされた……それらの名高い尊い墳墓も今は荒れるがままに荒れ果て、土塀の崩れた土から生えた灌木や芒の茂りまたは倒れた石の門に這いまつわる野蔦の・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ 精神がこの屈辱を感ずるとき、吾人はこれを過去の輪廓がまさに崩れんとする前兆と見る。未来に引き延ばしがたきものを引き延ばして無理にあるいは盲目的に利用せんとしたる罪過と見る。 過去はこれらのイズムに因って支配せられたるが故に、これか・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・こいつは棺にも入れず葬むりもしないから誠に自由な感じがして甚だ心持がよいわけであるが、併し誰れかに見つけられて此ミイラを風の吹く処へかつぎ出すと、直ぐに崩れてしまうという事である。折角ミイラになって見た所が、すぐに崩れてしもうてはまるで方な・・・ 正岡子規 「死後」
・・・雲の峰はだんだん崩れてあたりはよほどうすくらくなりました。「この頃、ヘロンの方ではゴム靴がはやるね。」ヘロンというのは蛙語です。人間ということです。「うん。よくみんなはいてるようだね。」「僕たちもほしいもんだな。」「全くほし・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・然し今まで平穏に自分の囲を取捲いていた生活の調子は崩れてしまうだろう、自分はまるで未知未見な生活に身を投じて、辛い辛い思いで自分を支えて行かなければならない――ここで、人として独立の自信を持ち得ない、持つ丈の実力を欠いている彼女は、何処かに・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
・・・まさかお父う様だって、草昧の世に一国民の造った神話を、そのまま歴史だと信じてはいられまいが、うかと神話が歴史でないと云うことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入るように物質的思想が這入って来て、船を沈没させず・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・彼に続いて一大隊が、一聯隊が、そうして敵軍は崩れ出した。ナポレオンの燦然たる栄光はその時から始まった。だが、彼の生涯を通して、アングロサクソンのように彼を苦しめた田虫もまた、同時にそのときの一兵卒の銃から肉体へ移って来た。 ナポレオンの・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・小枝の上にたまった雪などは非常に崩れやすく、ちょっとした風や、少しの間の日光で、すぐだめになってしまう。枝の上の雪が崩れ始めれば、もう雪景色はおしまいである。だから市中に住んでいる人にこの景色を見せたいと思っても、見せるわけには行かなかった・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫