・・・彼は、愛も憎みも、乃至また性欲も忘れて、この象牙の山のような、巨大な乳房を見守った。そうして、驚嘆の余り、寝床の汗臭い匂も忘れたのか、いつまでも凝固まったように動かなかった。――楊は、虱になって始めて、細君の肉体の美しさを、如実に観ずる事が・・・ 芥川竜之介 「女体」
・・・大鮪か、鮫、鱶でないと、ちょっとその巨大さと凄じさが、真に迫らない気がする。――ほかに鮟鱇がある、それだと、ただその腹の膨れたのを観るに過ぎぬ。実は石投魚である。大温にして小毒あり、というにつけても、普通、私どもの目に触れる事がないけれども・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 何しろ……胸さきの苦しさに、ほとんど前後を忘じたが、あとで注意すると、環海ビルジング――帯暗白堊、五階建の、ちょうど、昇って三階目、空に聳えた滑かに巨大なる巌を、みしと切組んだようで、芬と湿りを帯びた階段を、その上へなお攀上ろうとする・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・けれども、以前見覚えた、両眼真黄色な絵具の光る、巨大な蜈むかでが、赤黒い雲の如く渦を巻いた真中に、俵藤太が、弓矢を挟んで身構えた暖簾が、ただ、男、女と上へ割って、柳湯、と白抜きのに懸替って、門の目印の柳と共に、枝垂れたようになって、折から森・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・その大さ、大洋の只中に計り知れぬが、巨大なるえいの浮いたので、近々と嘲けるような黄色な目、二丈にも余る青い口で、ニヤリとしてやがて沈んだ。海の魔宮の侍女であろう。その消えた後も、人の目の幻に、船の帆は少時その萌黄の油を塗った。……「畳で言い・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・そのでっぱなに巨大な松が七、八本、あるいは立ち、あるいは這うている。もちろん千年の色を誇っているのである。ほかはことごとく雑木でいっせいに黄葉しているが、上のほう高いところに楓樹があるらしい。木ずえの部分だけまっかに赤く見える。黄色い雲の一・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・そしてその涯には一本の巨大な枯木をその巓に持っている、そしてそのためにことさら感情を高めて見える一つの山が聳えていた。日は毎日二つの溪を渡ってその山へ落ちてゆくのだったが、午後早い日は今やっと一つの溪を渡ったばかりで、溪と溪との間に立ってい・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ なんというそれは巨大な谿だったろう。遠靄のなかには音もきこえない水も動かない滝が小さく小さく懸っていた。眩暈を感じさせるような谿底には丸太を組んだ橇道が寒ざむと白く匍っていた。日は谿向こうの尾根へ沈んだところであった。水を打ったような静け・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持っていて、見ていると、それがみな埃及のピラミッドのような巨大な悲しみを浮かべている。――低地を距てた洋館には、その時刻、並んだ蒼桐の幽霊のような影が写っていた。向日性を持った、もやしのように蒼白い堯の触・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・今は誰の眼からも隠れてしまった――今は巨大な闇と一如になってしまった――それがこの感情なのだろうか。 私はながい間ある山間の療養地に暮らしていた。私はそこで闇を愛することを覚えた。昼間は金毛の兎が遊んでいるように見える谿向こうの枯萱山が・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
出典:青空文庫