・・・と云って兵衛が生きたにせよ、彼自身が命を墜したら、やはり永年の艱難は水泡に帰すのも同然であった。彼はついに枕を噛みながら、彼自身の快癒を祈ると共に、併せて敵瀬沼兵衛の快癒も祈らざるを得なかった。 が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に刻薄で・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・「ちょいと託ける事があるのだから、折角見えたものを情なく追帰すのも、お気の毒だと思って、通して上げましたがね、熟として待っていなさい。私の方に支度があるのだから、お前さんまた大きな声を出したり、威張ったり、お騒ぎだと為になりませんよ。」・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・「よせ、よせ!」と、三味線をひッたくったらしい。「じゃア、もう、帰って頂戴よ、何度も言う通り、貰いがかかっているんだから」「帰すなら、帰すようにするがいい」「どうしたらいいのよ?」「こうするんだ」「いたいじゃアないか・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 縦ひ妖魔をして障碍を成さしむるも 古仏因縁を証する無かるべけん 明珠八顆都て収拾す 想ふ汝が心光地に凭て円きを 里見義成依然形勝関東を控ふ 剣豪犬士の功に非ざる無し 百里の江山掌握に帰す 八州の草本威風に偃す 驕将敗を取る・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・「いま時分、お父さんを帰すのは、心配でなりませんが。」と、息子は、案じながらいいました。 すると、おじいさんは、からからと笑いました。「俺は、おまえよりも年をとっている。それに、智慧もある。まちがいのあるようなことはないから、安・・・ 小川未明 「おおかみをだましたおじいさん」
・・・特に、今日の資本主義に反抗して、芸術を本来の地位に帰す戦士でなければなりません。かゝる芸術の受難時代が、いつまでつゞくか分りませんが、考えようによって、アムビシャスな作家には、興味ある時代であります。・・・ 小川未明 「作家としての問題」
・・・このばかな女でもなければ、一目見て追い帰すにちがいない。いったい、医者というものをなんと心得「おじいさん、せっかくだが、私は、これから急病人の迎えを受けているので、出かけなければならないのだ。だからすぐみてあげることができない。どうか、・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・「あゝ。」 栗本の腕は、傷が癒えても、肉が刳り取られたあとの窪んだ醜い禿は消す訳に行かなそうだった。「福島はどうでしょうか、軍医殿。」「帰すさ。こんな骨膜炎をいつまでも置いといちゃ場所をとって仕様がない。」 あと一週間に・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・双方負けず劣らず遣合って、チャンチャンバラと闘ったが、仏元は左右の指を鼎の耳へかけて、この鼎を還すまじいさまをしていた。論に勝っても鼎を取られては詰らぬと気のついた廷珸は、スキを見て鼎を奪取ろうとしたが、耳をしっかり持っていたのだったから、・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ されど、天命の寿命をまっとうして、疾病もなく、負傷もせず、老衰の極、油つきて火の滅するごとく、自然に死に帰すということは、その実はなはだ困難のことである。なんとなれば、これがためには、すべての疾病をふせぎ、すべての災禍をさけるべき完全・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫