・・・…… さて、二人がその帰り道である。なるほど小さい、白魚ばかり、そのかわり、根の群青に、薄く藍をぼかして尖の真紫なのを五、六本。何、牛に乗らないだけの仙家の女の童の指示である……もっと山高く、草深く分入ればだけれども、それにはこの陽気だ・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・夏の日郊外の植木屋を訪ねて、高山植物を求め帰り道に、頭上高く飛ぶ白雲を見て、この草の生えていた岩石重畳たる峻嶺を想像して、無心の草と雲をなつかしく思い、童話の詩材としたこともありました。一生のうちには、山へもいつか上る機会があるように漠然と・・・ 小川未明 「春風遍し」
・・・ 獲物は帰り道にあらわれる。 かれはもう、絶望しかけて、夕暮の新宿駅裏の闇市をすこぶる憂鬱な顔をして歩いていた。彼のいわゆる愛人たちのところを訪問してみる気も起らぬ。思い出すさえ、ぞっとする。別れなければならぬ。「田島さん!」・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ その酒の店からの帰り道、井の頭公園の林の中で、私は二、三人の産業戦士に逢った。その中の一人が、すっと私の前に立ちふさがり、火を貸して下さい、と叮嚀な物腰で言った。私は恐縮した。私は自分の吸いかけの煙草を差し出した。私は咄嗟の間に、さま・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・ ある夜夜ふけての帰り道に芋屋の角まで来ると、路地のごみ箱のそばをそろそろ歩いているおさるの姿を見かけた。近づいて頭をなでてやると逃げようともしないでおとなしくなでられていた。背中がなんとなく骨立っていて、あまり光沢のないらしい毛の手ざ・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・それがよほどおかしかったと見えて、帰り道に精養軒前をぶらぶら歩きながら、先生が、そのグウ/\/\というかえるの声のまねをしては実に腹の奥からおかしそうに笑うのであった。そのころの先生にはまだ非常に若々しい書生っぽいところが多分にあったような・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・或晩舞台で稽古に夜をふかしての帰り道、わたくしは何か口ざむしい気がして、夜半過ぎまで起きている食物屋を栄子にきいた事があった。栄子は近所に住んでいる踊子仲間の二、三人をもさそってくれて、わたくしを吉原の角町、稲本屋の向側の路地にある「すみれ・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 太鼓を叩く前座の坊主とは帰り道がちがうので、わたくしは毎夜下座の三味線をひく十六、七の娘――名は忘れてしまったが、立花家橘之助の弟子で、家は佐竹ッ原だという――いつもこの娘と連立って安宅蔵の通を一ツ目に出て、両国橋をわたり、和泉橋際で・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・狐に化かされたような顔をして茫然と塔を出る。帰り道にまた鐘塔の下を通ったら高い窓からガイフォークスが稲妻のような顔をちょっと出した。「今一時間早かったら……。この三本のマッチが役に立たなかったのは実に残念である」と云う声さえ聞えた。自分なが・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・この現実暴露といっていいような帰り道がなかったら、巨椋池の蓮見は完全にすばらしいのだが、と思わずにいられなかった。 宿に帰ったのは七時近くであったと思う。朝飯は、蓮の若葉を刻み込んだ蓮飯であった。 谷川君はこの時には何も言わなか・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫