・・・「あの時は、私共も届きませんでしたけれど……」「あれから、お前さん、浦和へ着くまでがなかなか大変でしたよ」とお三輪も思わず焼出された当時の心持を引出された。「平常なら一時間足らずで行かれるところなんでしょう、それを六時間も七時間もかかっ・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・私は、三日もまえから、そわそわして、「待つ」ということは、なかなか、つらい心理であると、いまさらながら痛感したのである。 よそから、もらったお酒が二升あった。私は、平常、家に酒を買って置くということは、きらいなのである。黄色く薄濁りした・・・ 太宰治 「酒ぎらい」
・・・これは自分が平常はなはだ遺憾に思っている次第である、日本がアメリカに負けているのは必ずしも飛行機だけではないのである。このひけ目を取り返すには次のジェネレーションの自覚に期待するよりほかに全く望みはないように見える。 六・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・と、二人は「宮本利平だ!」と、冷たく云い放って、踵を返してバタバタ逃げ出してしまった。奴らは見張をしていたのだ。生意気に「宮本だ」と、平常親より怖れ、また敬っている自分へ、冷たく云い放ったときも、あの眼だ。 トラックを急がせて、会社近く・・・ 徳永直 「眼」
・・・――確かに動いている。平常から動いているのだが気がつかずに今日まで過したのか、または今夜に限って動くのかしらん。――もし今夜だけ動くのなら、ただごとではない。しかしあるいは腹工合のせいかも知れまい。今日会社の帰りに池の端の西洋料理屋で海老の・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・そして一旦それが解れば、始めに見た異常の景色や事物やは、何でもない平常通りの、見慣れた詰らない物に変ってしまう。つまり一つの同じ景色を、始めに諸君は裏側から見、後には平常の習慣通り、再度正面から見たのである。このように一つの物が、視線の方角・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ かように暗裏の鬼神を画き空中の楼閣を造るは平常の事であるが、ランプの火影に顔が現れたのは今宵が始めてである。『ホトトギス』所載の挿画 年の暮の事で今年も例のように忙しいので、まだ十三、四日の日子を余して居るにもかかわら・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・ ルポルタージュは観たこと、聴いたこと、感じたこと、即ち対象となる現実をひっくるめた人間生活諸相の報告であって、もとより平常では見られない珍らしいこと、スリルなこと、風土的エキゾチシズムが主要な部分ではない。 今日の所謂戦線ルポルタ・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・ 続いて酒井家の大目附から、町奉行の糺明が済んだから、「平常通心得べし」と、九郎右衛門、りよ、文吉の三人に達せられた。九郎右衛門、りよは天保五年二月に貰った御判物を大目附に納めた。 閏七月朔日にりよに酒井家の御用召があった。辰の下刻・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・仰って、いまは、透き通るようなお手をお組みなされ、暫く無言でいらっしゃる、お側へツッ伏して、平常教えて下すった祈願の言葉を二た度三度繰返して誦える中に、ツートよくお寐入なさった様子で、あとは身動きもなさらず、寂りした室内には、何の物音もなく・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫