・・・――低地を距てた洋館には、その時刻、並んだ蒼桐の幽霊のような影が写っていた。向日性を持った、もやしのように蒼白い堯の触手は、不知不識その灰色した木造家屋の方へ伸びて行って、そこに滲み込んだ不思議な影の痕を撫でるのであった。彼は毎日それが消え・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 六百尺の、エジプトのスフィンクスの洞窟のような廃坑に、彼女は幽霊のように白い顔で立っていた。 彼は、差し出したカンテラが、彼女にぶつかりそうになって、始めてそれに気がついた。水のしずくが、足もとにポツ/\落ちていた。カンテラの火が・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・し伸びあがってお勝手の格子窓から外を見ますと、かぼちゃの蔓のうねりくねってからみついている生垣に沿った小路を夫が、洗いざらしの白浴衣に細い兵古帯をぐるぐる巻きにして、夏の夕闇に浮いてふわふわ、ほとんど幽霊のような、とてもこの世に生きているも・・・ 太宰治 「おさん」
・・・しばらく私のすがたを見つめているうちに、私には面皰もあり、足もあり、幽霊でないということが判って、父は憤怒の鬼と化し、母は泣き伏す。もとより私は、東京を離れた瞬間から、死んだふりをしているのである。どのような悪罵を父から受けても、どのような・・・ 太宰治 「玩具」
・・・公式は、丁度世界歴史の年代の数字と同様に、彼等の物理学の中に潜む気味の悪い怖ろしい幽霊である。よく訳のわかった巧者な実験家の教師が得られるならば中頃の学級からやり始めていい。そうしてもラテン文法の練習などではめったに出逢わないような印象と理・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・断えず出入りしているが劇中の人には見えない聞こえない、ちょうど幽霊のような役目をつとめている。教授自身が道化師になって後にはこれが現われて来ない。これはおそらく教授のドッペルゲンガーのようなもので、そうして未来の悲運の夢魔であり、眼前の不安・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・彼らの或者はもはや最後の手段に訴える外はないと覚悟して、幽霊のような企がふらふらと浮いて来た。短気はわるかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛抱が足らなかった。しかし誰が彼らをヤケにならしめたか。法律の眼から何と見ても、天の眼からは彼らは乱・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・「これか、なにこれは幽霊の本さ」と津田君はすこぶる平気な顔をしている。この忙しい世の中に、流行りもせぬ幽霊の書物を澄まして愛読するなどというのは、呑気を通り越して贅沢の沙汰だと思う。「僕も気楽に幽霊でも研究して見たいが、――どうも毎・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・御蔭で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた。それから其方針で少しやって、全部の計画は日本でやり上げる積で西洋から帰って来ると、大学に教えてはどうかということだったので、そんならそうしようと言って大学に・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・と私は考えた。幽霊じゃあるまいし、私の一足後ろを、いくらそうっと下りたところで、音のしない訳がないからだ。 私はもう一度彼女を訪問する「必要」はなかった。私は一円だけ未だ残して持っていたが、その一円で再び彼女を「買う」と云うことは、私に・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫