・・・ 海はただ幾重かの海苔粗朶の向うに青あおと煙っているばかりである。…… けれども海の不可思議を一層鮮かに感じたのは裸になった父や叔父と遠浅の渚へ下りた時である。保吉は初め砂の上へ静かに寄せて来るさざ波を怖れた。が、それは父や叔父と海の中・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・濃く香しい、その幾重の花葩の裡に、幼児の姿は、二つながら吸われて消えた。 ……ものには順がある。――胸のせまるまで、二人が――思わず熟と姉妹の顔を瞻った時、忽ち背中で――もお――と鳴いた。 振向くと、すぐ其処に小屋があって、親が留守・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・西ははるかに水の行衛を見せて、山幾重雲幾重、鳥は高く飛びて木の葉はおのずから翻りぬ。草苅りの子の一人二人、心豊かに馬を歩ませて、節面白く唄い連れたるが、今しも端山の裾を登り行きぬ。 荻の湖の波はいと静かなり。嵐の誘う木葉舟の、島隠れ行く・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・昔は花火の筒と云えば、木筒に竹のたがを幾重となく鉢巻きしたのを使ったものだが、さすがに今ではもうそんなものは使わないと見える。第一その筒の傍に立って、花火の打上げを担当している二人の技手からが、洋服に、スエター、半ズボンというハイカラな服装・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・すべてがそのはじめは不精密なる経験の試験的整理を幾重となく折り返し繰り返し重ねて、漸進的に進んで来たものである。その昔、独断と畏怖とが対峙していた間は今日の「科学」は存在しなかった。「自然」を実験室内に捕えきたってあらゆる稚拙な「試み」を「・・・ 寺田寅彦 「比較言語学における統計的研究法の可能性について」
・・・このようないろいろの騒がしい音はしばらくすると止まって、それが次の室に移り行くころには、足もとの壁に立っている蒸気暖房器の幾重にも折れ曲がった管の中をかすかにかすかにささやいて通る蒸気の音ばかりが快い暖まりを室内にみなぎらせる。すると今まで・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・ かくして太織の蒲団を離れたる余は、顫えつつ窓を開けば、依稀たる細雨は、濃かに糺の森を罩めて、糺の森はわが家を遶りて、わが家の寂然たる十二畳は、われを封じて、余は幾重ともなく寒いものに取り囲まれていた。 春寒の社頭に鶴を夢みけり・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ 一度途切れた村鍛冶の音は、今日山里に立つ秋を、幾重の稲妻に砕くつもりか、かあんかあんと澄み切った空の底に響き渡る。「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される」と圭さんが腕組をしながら云う。「全体豆腐屋の子がどうして、・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 黒子だらけの顔 いま住んでいる家で二階の南縁に立つと、幾重か屋根瓦の波の彼方に八年ばかり前にいた家の屋根が見える。その家も南向きで、こちらも南があいているから、ひょっとした折、元の家の二階の裏側の一部を眺める・・・ 宮本百合子 「犬三態」
・・・生きのこった日本の全人民が、はじめて幾重もの口かせ、手かせからときはなされたことを意味した。ニッポン・ニュースがこの期間に製作した「君たちは話すことができる」一巻は、日本の民主化の過程に忘れることのできない記念品となった。人民の一人一人を吊・・・ 宮本百合子 「三年たった今日」
出典:青空文庫