・・・描き出ださるべき一人に同情して理否も、前後も弁えぬほどの熱情をもって文をやる男よりもたしかなところがあるかも知れぬ。 吾が精神を篇中の人物に一図に打ち込んで、その人物になりすまして、恋を描き愛を描き、もしくは他の情緒を描くのは熱烈なもの・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・其等の事実も弁えずして、此女に子なしと断定するは、畢竟無学の臆測と言う可きのみ。子なきが故に離縁と言えば、家に壻養子して配偶の娘が子を産まぬとき、子なき男は去る可しとて養子を追出さねばならぬ訳けなり。左れば此一節は女大学記者も余程勘弁して末・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・人としてただ技芸のみを知り、道の何ものたるを弁えずんば、ほとんど禽獣に近し。道徳の教、はなはだ大切なりといえども、余輩の考は少しくこれに異なり。その異なる所は道徳を不用なりというには非ず。小学校に『論語』『大学』の適当せざるをいうなり。今の・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・不敬不埒と言うよりも常識を失う朱愚と言う可し、大倫を弁えざる人非人と言う可し。女子の注意して心に銘ず可き所のものなり。一 小児養育は婦人の専任なれば、仮令い富貴の身分にても天然の約束に従て自から乳を授く可し。或は自身の病気又は衛生上の差・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・ 若しその朋友が、秀でた叡智と洞察とを以て人間を見得る人なら、事は未然に防がれると同時に、自己の進退を弁えていましょう。 けれども、人間は、必ずいつも正義によって行動するものとは定っていません。 その人が、それによって自分を愛し・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
・・・まして、大局ではマイナスの作用をしつつ、目前ともかくプラスである協力者をもたず、或は良人と自身との画境をはっきり弁えて自力の成熟をしようと心がけている若い少数の婦人画家たちは、現在の常識ではどっちを向いても損であり苦しいということになる。・・・ 宮本百合子 「くちなし」
・・・ささやかな火は絶えず立ちのぼる煙は やまねど行くかたを知らず 流れ行く途も弁えない。若しわが献げられた身を神がよみし給うなら寂漠の瞬間冲る香煙の頂を美しい衛星に飾られた一つの星まで のぼらせ給え。燦ら・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・互に為すべきことを明に弁え、正しく賢く着々と生活を運転させることが彼等の理想であって、理由のない遠慮で仕事も遅らせたり、過度な感情に沈湎して頭を乱すようなことは、見識のない無知として斥けずにはいられないことなのです。 生きた例として、私・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・ 然しながら、漱石が、人間性のより高さへの批判をもって観察した現実の自我は、社会の諸制約によって歪み、穢され、細分され、自我と利己との分別をさえ弁えぬ我と我との確執、紛糾であった。彼が晩年「明暗」を執筆していた頃の日記には、この偉大な芸・・・ 宮本百合子 「文学における今日の日本的なるもの」
・・・彼は自分でも自分の特質をよく知り抜いており、また人々に理解して貰えないということを、ちゃんと弁えていた。この男の言葉づかいには一つの癖があり、他人なら善いとか悪いとか、拙いとかいうところを、ヤコヴは大概、興味がある、面白い、珍しいという云い・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫