・・・私は海辺に育ちましたから浪を見るのが大好きですよ。海が荒れると、見にくるのが楽しみです」「あすこが大阪かね」私は左手の漂渺とした水霧の果てに、虫のように簇ってみえる微かな明りを指しながら言った。「ちがいますがな。大阪はもっともっと先・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 見返柳を後にして堤の上を半町ばかり行くと、左手へ降る細い道があった。これが竜泉寺町の通で、『たけくらべ』第一回の書初めに見る叙景の文は即ちこの処であった。道の片側は鉄漿溝に沿うて、廓者の住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 太十はいきなり犬を引っつるように左手で抱えた。「見やがれ殺しはぐりあるもんか」 犬殺しは毒ついて行ってしまった。太十の怒った顔は其時恐ろしかった。赤は抱かれて後足をだらりと垂れて首をすっと低くして居た。荒繩で括った麻の空袋を肩・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・婆さんがこちらへと云うから左手の戸をあけて町に向いた部屋に這入る。これは昔し客間であったそうだ。色々なものが並べてある。壁に画やら写真やらがある。大概はカーライル夫婦の肖像のようだ。後ろの部屋にカーライルの意匠に成ったという書棚がある。それ・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・この時死は寝室の扉の傍、舞台の前の方、右手に立ちおり、主人は左手壁の方、薄暗き処に立ちおる。右手の扉を開きて主人の母出で来る。更けたりという程にはあらず。長き黒き天鵞絨の上着を着し、顔の周囲に白きレエスを付けたる黒き天鵞絨の帽子を冠りおる。・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・娘の蛙は左手で顔をかくして右手の指をひろげてカン蛙を指しました。「おいカン君、お嬢さんがきみにきめたとさ。」「何をさ?」 カン蛙はけろんとした顔つきをしてこっちを向きました。「お嬢さんがおまえさんを連れて行くとさ。」 カ・・・ 宮沢賢治 「蛙のゴム靴」
・・・ 窓へ顔をくっつけて左手を見ると、そっちに停車場らしいものが見える。が、そこまでは遠く列車の止ってるのは雪に埋もれた丘の附近である。 ――何てステーション? ノヴォミールが廊下できいている。 ――木のステーション! 人形・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・窓の明りが左手から斜に差し込んで、緑の羅紗の張ってある上を半分明るくしている卓である。 ―――――――――――――――― この秋は暖い暖いと云っているうちに、稀に降る雨がいつか時雨めいて来て、もう二三日前から、秀麿の・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・高田が梶の右手に寝て、栖方が左手で、すぐ眠りに落ちた二人の間に挟まれた梶は、寝就きが悪く遅くまで醒めていた。上半身を裸体にした栖方は蒲団を掛けていなかった。上蒲団の一枚を四つに折って顔の上に乗せたまま、両手で抱きかかえているので、彼の寝姿は・・・ 横光利一 「微笑」
・・・首の棒を握る人形使いの左手がそれをささえるのである。その框から紐が四本出ていて、その二本が腕に結びつけられ、他の二本が脚に結びつけられている。すなわち人形の肢体を形成しているのは実はこの四本の紐なのであって、手や足はこの紐の端に過ぎない。従・・・ 和辻哲郎 「文楽座の人形芝居」
出典:青空文庫