・・・ 焚き火の傍へ行って、殊更らしく訊ねかえすと、他の労働者達に笑われるので気が引けた。何とかして、自分で探し出して持って行かねばならない。「まかない棒というから、とにかく棒には違いないんだろう。」 彼は、醤油を煮ている大きな釜の傍・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・前の嚊にこそ血筋は引け、おらには縁の何も無いが、おらあ源三が可愛くって、家へ帰るとあいつめが叔父さん叔父さんと云いやがって、草鞋を解いてくれたり足の泥を洗ってくれたり何やかやと世話を焼いてくれるのが嬉しくてならない。子という者あ持ったことも・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・一本の指で引けと教えられたのに、内内二本の指を掛けて、力一ぱいに引いて見た。そのとき耳が、がんと云った。弾丸は三歩ほど前の地面に中って、弾かれて、今度は一つの窓に中った。窓が、がらがらと鳴って壊れたが、その音は女の耳には聞えなかった。どこか・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・押せども、引けども、お前たちは、びくともしねえ。 だって、あなたたちは、間違った事をしているのですもの。 聖書にこれあり。赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し。この意味がわかるか。間違いをした事がないという自信を持っている奴・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・同じ畑の中をなんべんも往復しているのを少し離れた畑で働いていた農夫が怪しんでいるようで少し気が引けた。自分が農夫になって見た時にこの絵の具箱をぶら下げて歩いている自分がいかにも東京ののらくら者に見えるので心細かった。とうとう鉄道線路のそばの・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・譬喩を引けば浦島太郎が竜宮の一年はこの世界の十年に当たるというような空想や、五十年の人生を刹那に縮めて嘗め尽くすというような言葉の意味を、つまり「このエントロピーの時計で測った時の経過と普通の時計と比べて一年と十年また五十年と一瞬とに当たる・・・ 寺田寅彦 「時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ」
・・・雨の日など泥まみれの足を手ぬぐいでごしごしふいて上がるのはいいが絹の座ぶとんにすわらされるのに気が引けた記憶がある。玄関の左に六畳ぐらいの座敷があり、その西隣が八畳ぐらいで、この二室が共通の縁側を越えて南側の庭に面していた。庭はほとんど何も・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・て悲鳴を上るに至っては自転車の末路また憐むべきものありだがせめては降参の腹癒にこの老骨をギューと云わしてやらんものをと乗らぬ先から当人はしきりに乗り気になる、然るにハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり、向へ押しやると往来の・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・例を引けば長くなる、証を挙げれば大変である。仕方がないから、ただ真の一字が現代文芸ことに文学の理想であると云い放っておきます。しばらくこれを事実と御承認を願いたい。ところでこの真なるものも、いわゆる分化作用で、いろいろの種類と程度を有してい・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・前は牛を呑むアーチの暗き上より、石に響く扉を下して、刎橋を鉄鎖に引けば人の踰えぬ濠である。 濠を渡せば門も破ろう、門を破れば天主も抜こう、志ある方に道あり、道ある方に向えとルーファスは打ち壊したる扉の隙より、黒金につつめる狼の顔を会釈も・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫