・・・軍隊手帖を引き出すのがわかる。かれの眼にはその兵士の黒く逞しい顔と軍隊手帖を読むために卓上の蝋燭に近く歩み寄ったさまが映った。三河国渥美郡福江村加藤平作……と読む声が続いて聞こえた。故郷のさまが今一度その眼前に浮かぶ。母の顔、妻の顔、欅で囲・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・びて行く、左の手を伸ばされるだけ伸ばしたところでその手をあげて今できあがっただけの糸を紡錘に通した竹管に巻き取る、そうしておいて再び左手を下げて糸を紡錘の針の先端にからませて撚りをかけながら新たな糸を引き出すのである。大概車の取っ手を三回ま・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・観客はこのシーンからなんら論理的なる結論を引き出すことはできないであろう。それはちょうど俳諧連句の揚げ句のようなものだからである。 映画「大地」はドラマでもなく、エピックでもなく、またリュリックでもない。これに比較さるべき唯一の芸術形式・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。 しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・これらの読み物は自分の五体の細胞の一つずつに潜在していた伝統的日本人をよびさまし明るみへ引き出すに有効であった。「絵本西遊記」を読んだのもそのころであったが、これはファンタジーの世界と超自然の力への憧憬を挑発するものであった。そういう意味で・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
・・・ 森の絵が引出す記憶には限りがない。竪一尺横一尺五寸の粗末な額縁の中にはあらゆる幼時の美しい幻が畳み込まれていて、折にふれては画面に浮出る。現世の故郷はうつり変っても画の中に写る二十年の昔はさながらに美しい。外の記憶がうすれて来る程、森・・・ 寺田寅彦 「森の絵」
・・・しかし、その男が元来どうしてそれほどまでに猫を可愛がるようになったかという過程を考えてみる、そうすると彼の周囲の人間が、少なくも彼の目から見て、彼の人間らしい暖かい心を引出す能力を欠いていたのではないかという疑いが起る。もしそうだとすると彼・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・従って笑いによく似た心持ちを誘発し、それがほんとうの笑いを引き出す。とこういうような事ではないだろうか。こう思って自分の場合に当たってみるとある程度まではそれでうまく説明ができるように思われる。医者に診てもらって深呼吸をする時などには最も適・・・ 寺田寅彦 「笑い」
・・・瀝青ウラン鉱からラジウムを引き出すことに成功した彼らが、その特許を独占して商業的に巨万の富を作ってゆくか、それとも、あくまで科学者としての態度を守ってその精錬のやり方をも公表し、人類科学の為に開放するか、二つの中のどちらかに決定する種類のも・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・一人百円ずつ引出せる、といわれても、引出す金はもう大体において尽きている。 こういう疑問にみたされながら、私共は従順に、十円札に小さい皮肉な膏薬のように貼紙をつけ、三月三日という暦をはぎとった。 旧券封鎖で、物価はどうなるかと、目を・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫