・・・僕は一時間ばかり歩いた後、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思いました。けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上にしなければなりません。といって霧は一刻ごとにずんずん深くなるばかりなのです。「ええ、いっそ・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・しかし白は引き返すどころか、足を止めるけしきもありません。ぬかるみを飛び越え、石ころを蹴散らし、往来どめの縄を擦り抜け、五味ための箱を引っくり返し、振り向きもせずに逃げ続けました。御覧なさい。坂を駈けおりるのを! そら、自動車に轢かれそうに・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・ 僕等は絶え間ない浪の音を後に広い砂浜を引き返すことにした。僕等の足は砂の外にも時々海艸を踏んだりした。「ここいらにもいろんなものがあるんだろうなあ。」「もう一度マッチをつけて見ようか?」「好いよ。………おや、鈴の音がするね・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・僕等は今度は引き返す代りに生け垣の間を左へ曲った。けれどもお墓は見当らなかった。のみならず僕の見覚えていた幾つかの空き地さえ見当らなかった。「聞いて見る人もなし、………困りましたね。」 僕はこう言うK君の言葉にはっきり冷笑に近いもの・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・けれども折角そこまで来ていながら、そのまま引返すのはどうしてもいやでした。で、妹に帽子を脱がせて、それを砂の上に仰向けにおいて、衣物やタオルをその中に丸めこむと私たち三人は手をつなぎ合せて水の中にはいってゆきました。「ひきがしどいね」・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ しばらく同じ処に影を練って、浮いつ沈みつしていたが、やがて、すいすい、横泳ぎで、しかし用心深そうな態度で、蘆の根づたいに大廻りに、ひらひらと引き返す。 穂は白く、葉の中に暗くなって、黄昏の色は、うらがれかかった草の葉末に敷き詰めた・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・…… 明神まで引返す、これにも少年が用立った。爺さんにかわって、お誓を背にして走った。 清水につくと、魑魅が枝を下り、茂りの中から顕われたように見えたが、早く尾根づたいして、八十路に近い、脊の低い柔和なお媼さんが、片手に幣結える榊を・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・――駕籠は夜をかけて引返すのである。 留守に念も置かないで、そのまま駕籠を舁出した。「おお、あんばいが悪いだね、冷えてはなんめえ。」樹立の暗くなった時、一度下して、二人して、二人が夜道の用意をした、どんつくの半纏を駕籠の屋根につけたのを・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・ この大なる鯉が、尾鰭を曳いた、波の引返すのが棄てた棹を攫った。棹はひとりでに底知れずの方へツラツラと流れて行く。 九「……太夫様……太夫様。」 偶と紫玉は、宵闇の森の下道で真暗な大樹巨木の梢を仰いだ。…・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・と軽く柔にすり抜けて、扉の口から引返す。……客に接しては、草履を穿かない素足は、水のように、段の中途でもう消える。……宵に鯊を釣落した苦き経験のある男が、今度は鱸を水際で遁した。あたかもその影を追うごとく、障子を開けて硝子戸越に湖を覗いた。・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
出典:青空文庫