・・・では比較的むだな饒舌が少ないようであるが、ひとり旅に出た子供のあとを追い駆ける男が、途中で子供の歩幅とおとなのそれとの比較をして、その目の子勘定の結果から自分の行き過ぎに気がついて引き返すという場面がある。「子供の足でこれだけ、おとなの足で・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・当時の政客で○○○議長もしたことのあるK氏の夫人とその同伴者が波打際に坐り込んで砂浜を這上がる波頭に浴しているうちに大きな浪が来て、その引返す強い流れに引きずり落され急斜面の深みに陥って溺死した。名士の家族であっただけにそのニュースは郷里の・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・ 頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。 頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・それで今朝汽車が出てしまって改札口へ引返すと同時に、なんだか気抜けがしたように、プラットフォームの踏心も軽く停車場を出ると空はよく晴れて快い日影を隠す雲もない。久し振りに天気のよい日曜である。宅へ帰ってどうすると云うあてもないので、銀座通り・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・ 無駄足が惜しくないように近所へわざわざ越して来ているのであったが、藍子はその時はそのまま家へ引返す気になれなかった。いい天気でもあったし、藍子は久世山の方へぶらぶら抜けながら、どこへ行こうかと思った。女子青年会のアパアトメントにいる友・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・秋三は勘次の後を追い馳けようとして二三歩進んだが、又引き返すと、縁へごろりと横になっている安次の襟を持ってひき起した。「寝さらして、こら!」「もう勘忍してくれ。」「勘忍も糸瓜もあるかえ。南へ行きやがれ南へ。」「もうお前、へた・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫