・・・ それから、確か二十三日の日でござえんしたろう、×××大将の若旦那、これはその時分の三本筋でしてね、つまり綾子さんの弟御に当るお方でさ。その方と秋山さんの親御が、区役所の兵事課へ突然車をおつけになって、小野某と云う者が、田舎の何番地にい・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、月日とともに進む向上の心もなく、傲慢にしてはなはだしく時勢に後れたるの致すところである。・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・二階の一間の欄干だけには日が当るけれど、下座敷は茶の間も共に、外から這入ると人の顔さえちょっとは見分かぬほどの薄暗さ。厠へ出る縁先の小庭に至っては、日の目を見ぬ地面の湿け切っていること気味わるいばかりである。しかし先生はこの薄暗く湿った家を・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・輝けるは眉間に中る金剛石ぞ。「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を憚かり、地を憚かる中に、身も世も入らぬまで力の籠りたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を畏れず。「ギニヴィア!」と応えたるは室の中なる人の声とも思わ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・方角や歩数等から考えると、私が、汚れた孔雀のような恰好で散歩していた、先刻の海岸通りの裏辺りに当るように思えた。 私たちの入った門は半分丈けは錆びついてしまって、半分だけが、丁度一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・其他は一として民法に当るものなきが如し。法律に当らざる離縁法を世に公けにするは人を誤るの恐れあり。例えば国民の私裁復讐は法律の許さゞる所なり。然るに今新に書を著わし、盗賊又は乱暴者あらば之を取押えたる上にて、打つなり斬るなり思う存分にして懲・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・蕪村にも二、三句あるのみなれども、雄壮当るべからざるの勢いあり。夕立や門脇殿の人だまり夕立や草葉をつかむむら雀 双林寺独吟千句夕立や筆も乾かず一千言 時鳥の句は芭蕉に多かれど、雄壮なるは時鳥声横ふや水の上 ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・眼鏡は、鼻に当るところに真綿が巻きつけてある。五つ年下の植村婆さんは、耳の遠い沢やに、大きな声で悠くり訊いた。「いよいよ行ぐかね?」 沢や婆は、さも草臥れたように其に答えず、「やっとせ」と上り框に腰を下した。そして、がさがさ・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・暑くはないが、じめじめとした空気が顔に当る。 女中は湯帷子に襷を肉に食い入るように掛けて、戸を一枚一枚戸袋に繰り入れている。額には汗がにじんで、それに乱れた髪の毛がこびり附いている。「ははあ、きょうも運動すると暑くなる日だな」と思う・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・従って非難は特にこの画家に当たるのではなく、この画家の態度を認容する現代日本画の手法そのものに当たるのだと承知していただきたい。『いでゆ』が我々の目前の題材を深く突き込んで捕えたことは、確かに喜ぶべきことである。またそれが目前の題材から・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫