・・・存在の前に当為があるなどいって、いわゆる実践理性の立場から道徳の形式が明にせられたとしても、真の実践は単に形式的に定まるのではない。此にも内容なき形式は空虚である。人は真実在は不可知的というかも知らない。もし然らば、我々の生命も単に現象的、・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・ ニイチェの理解に於ける困難さは、彼の初期に於ける少数の著書論文を除いて、その後の者が多くアフォリズムの形式で書かれて居ることにある。彼がこの文章の形式を選んだのは、一つには彼の肉体が病弱で、体系を有する大論文を書くに適しなかつた為もあ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 若き時は夫の親類友達等に打解けて語る可らず、如何なる必要あるも若き男に文通す可らずとは、嫌疑を避けるの意ならんけれども、婦人の心高尚ならんには形式上の嫌疑は恐るゝに足らず。我輩は斯る田舎らしき外面を装うよりも、婦人の思想を高き・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・この種々な物を彫刻家が刻んだ時は、この種々な物が作者の生々した心持の中から生れて来て、譬えば海から上った魚が網に包まれるように、芸術の形式に包まれた物であろう。己はお前達の美に縛せられて、お前達を弄んだお蔭で、お前達の魂を仮面を隔てて感じる・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・この間に立ちて形式の簡単なる俳句はかえって和歌よりも複雑なる意匠を現わさんとして漢語を借り来たり佶屈なる直訳的句法をさえ用いたりしも、そは一時の現象たるにとどまり、古池の句はついに俳句の本尊として崇拝せらるるに至れり。古池の句は足引の山鳥の・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・それは少年少女期の終りごろから、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式をとっている。この見地からその特色を数えるならば次の諸点に帰する。一 これは正しいものの種子を有し、その美しい発芽を待つものである。しかもけっして既成の・・・ 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
・・・更に、「ルポルタージュなるものは『物が人をうごかす』という唯物論的文学観によるのであり、今日この形式の文学が文壇の関心事となったこともそこに根拠があるのである」と、結ばれているが、既に現代の文学観は、「物が人を動かす」面にだけ立脚したプレハ・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・そんならと云って、教育のない、信仰のある人が、直覚的に神霊の存在を信じて、その間になんの疑をも挿まないのとも違うから、自分の祭をしているのは形式だけで、内容がない。よしや、在すが如く思おうと努力していても、それは空虚な努力である。いやいや。・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・何故なら、コンミニズム文学は、文学としての発展段階を無視したる文学形式であるからだ。彼らはその理想さえ主張出来得れば、曾て犯した唯心論的文学の古き様式をさえも、唯々諾々として受け入れているではないか。そこで、彼らは、文学の圏内に於ては、ただ・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・この暗示的な、多くを切り離して重要な一部分を示すという演り方、古い形式と束縛とを脱して美しい新形式を征服した、内より外に向かうという演り方、これがアアサア・シモンズを喜ばせた重大な点である。これが彼の象徴主義と合致した点なのである。古い演劇・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫