・・・「今日は御苦労でした。」「先ほど電話をかけましたが、――」「その後何もなかったですか?」 陳の語気には、相手の言葉を弾き除けるような力があった。「何もありません。奥さんは医者が帰ってしまうと、日暮までは婆やを相手に、何か・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・妻は自分の来たのを知ると一人だけ布団の上に坐り、小声に「どうも御苦労さま」と云った。妻の母もやはり同じことを云った。それは予期していたよりも、気軽い調子を帯びたものだった。自分は幾分かほっとした気になり、彼等の枕もとに腰を下した。妻は乳を飲・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・……しかし今夜は御苦労だった。行く前にもう一言お前に言っておくが」 そういう発端で明日矢部と会見するに当たっての監督としての位置と仕事とを父は注意し始めた。それは懇ろというよりもしちくどいほど長かった。監督はまた半時間ぐらい、黙ったまま・・・ 有島武郎 「親子」
・・・「ああ、御苦労でした。」と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめがゆるんだか、絹足袋の先へ長襦袢、右の褄がぞろりと落ちた。「お手水。」「いいえ、寝るの。」「はッ。」と、いうと、腰を上げざまに襖を一枚、直ぐに縁側へ辷・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 机の上に差置いて、「ほんとに御苦労様でした。」「はいはい、これはまあ、御丁寧な、御挨拶痛み入りますこと。お勝手からこちらまで、随分遠方でござんすからねえ。」「憚り様ね。」「ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・「――もう、ここかい――いや、御苦労でした――」 おやおや、会場は近かった。土橋寄りだ、と思うが、あの華やかな銀座の裏を返して、黒幕を落したように、バッタリ寂しい。……大きな建物ばかり、四方に聳立した中にこの仄白いのが、四角に暗・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・「それでは、母親、御苦労でございます。」「何んの、お前。」 と納戸へ入って、戸棚から持出した風呂敷包が、その錦絵で、国貞の画が二百余枚、虫干の時、雛祭、秋の長夜のおりおりごとに、馴染の姉様三千で、下谷の伊達者、深川の婀娜者が沢山・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ と、破れ布子の上から見ても骨の触って痛そうな、痩せた胸に、ぎしと組んだ手を解いて叩頭をして、「御苦労様でございます。」「むむ、御苦労様か。……だがな、余計な事を言わんでも可い。名を言わんかい。何てんだ、と聞いてるんじゃないか。・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
麦搗も荒ましになったし、一番草も今日でお終いだから、おとッつぁん、熱いのに御苦労だけっと、鎌を二三丁買ってきてくるっだいな、此熱い盛りに山の夏刈もやりたいし、畔草も刈っねばなんねい……山刈りを一丁に草刈りを二丁許り、何処の・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・ている作家、批評家が、両三日地方に出かけて、地方人に地方文学論に就て教えを垂れるという図は、ざらに見うけられたが、まず、色の黒い者に色の黒さを自覚させるために、わざわざ色白が狩り出されるようなもので、御苦労千万である。・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
出典:青空文庫