・・・ただこの競技の審査官はいかにも御苦労千万の次第である。だれかしかるべき文学者がこの競技の光景を描いたものがあれば読んでみたいものである。 シガーの灰の最大な団塊を作ったというレコードもやはりドイツ人の手に落ちた。これは一九二九年のことで・・・ 寺田寅彦 「記録狂時代」
・・・なるほど電磁気学理論の初歩も知らない素人で非常にラジオ通があるのに、三十年来この方面の学問に関係し、しかもそれで生活して来ている人間が、宅のラジオくらいを直すのに、一々ラジオ屋さんの御苦労を願うというのは自分ながら妙なことであると思われなく・・・ 寺田寅彦 「ラジオ雑感」
・・・「どうも御苦労様」と景気よく答えたのは遠吠が泥棒のためであるとも解釈が出来るからである。巡査は帰る。余は夜が明け次第四谷に行くつもりで、六時が鳴るまでまんじりともせず待ち明した。 雨はようやく上ったが道は非常に悪い。足駄をと云うと歯・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・はむやみに人を馬鹿にする婆さんにして、この婆さんが皮肉に人を馬鹿にする時、その妹の十一貫目の婆さんは、瞬きもせず余が黄色な面を打守りていかなる変化が余の眉目の間に現るるかを検査する役目を務める、御役目御苦労の至りだ、この二婆さんの呵責に逢て・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・「有難う、有難う」と云いながら、彼女の片手を執って敲いた。「御苦労様。これでれんが来れば申し分はない。――いいお正月を迎えよう、ね?」「いや!」 彼女は睫毛まで光る涙をあふれさせ、良人の手を離した。「貴方は本当のエゴ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・どうもいろいろ御苦労さま。バラさん、寿江子にそう云うと、私はもう否応なく主で、病院にいた間とはすっかりちがい、ひとまかせにしていられない生活の顔がもう其処に在る。庭にあんまり霜柱が立って八つ手や青木がしもげているのにおどろいた。うちの水道は・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・ 昨今ひとめで新入生とわかる子供たちを見ると、まあまあ、御苦労様だった、とその子の親をもこめて思う気持になるのは、私ひとりの感情ではないであろう。丁度三月の末、あちこちの入学試験のはじまる時分のことであった。公衆電話をかけに行ったら、先・・・ 宮本百合子 「新入生」
・・・ほんとうにいくら御姉妹が御有りだと云って彼の姉様なんかはまるで何なかたで却って妹様ばかり御苦労なさって居らっしゃるんでございますからねー、空は晴れてもまだ雪の消えなくて空と土面との境はうす紅とうす紫にかすんで、残った雪の銀のようにかがやく月・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・「何だい」「病院の自動車だ」 昼少し前になって原宿と伴立って幸雄が来た。「御苦労だね」「いいお天気で何よりでした」「これからかい」 応待など石川の眼にはどこも異常が認められなかった。そうかと思って見ると、僅に眼が・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・「随分御苦労なわけだね」と、遠慮深い戸川は主人の顔を見て云った。 主人はただにやりにやり笑っている。 富田は少し酔っているので、論鋒がいよいよ主人に向いて来る。「一体ここの御主人のような生活をしていられては、周囲の女のために危険・・・ 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫