・・・でないと出来上った六神丸の効き目が尠いだろうから、だが、――私はその階段を昇りながら考えつづけた――起死回生の霊薬なる六神丸が、その製造の当初に於て、その存在の最大にして且つ、唯一の理由なる生命の回復、或は持続を、平然と裏切って、却って之を・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「手を引っ込めぬと、命が無いぞ。そこで今云ったとおり、おれが盗んでいるのだ。おぬし手なんぞを出して、どうしようと云うのだ。馬鹿奴。取って売るつもりか。売るにしても誰に売る。この宝は持っていて、かつえて死ぬより外無いのだ。」「馬鹿げている・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・女は父母の命と媒妁とに非ざれば交らずと、小学にもみえたり。仮令命を失ふとも心を金石のごとくに堅くして義を守るべし。 幼稚の時より男女の別を正くして仮初にも戯れたる事を見聞せしむ可らずと言う。即ち婬猥不潔のことは目にも見ず耳にも聞・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・に浮気の性質にて、末の松山浪越さじとの誓文も悉皆鼻の端の嘘言一時の戯ならんとせんに、末に至って外に仔細もなけれども、只親仁の不承知より手に手を執って淵川に身を沈むるという段に至り、是ではどうやら洒落に命を棄て見る如く聞えて話の条理わからぬ類・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・己はついぞ可哀らしい唇から誠の生命の酒を呑ませて貰った事はない。ついぞ誠の嘆にこの体を揺られた事は無い。ついぞ一人で啜泣をしながら寂しい道を歩いた事はない。どうかした拍子でふいと自然の好い賜に触れる事があってもはっきり覚めている己の目はその・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・一たびこれに接して畏敬の念を生じたる春岳はこれを聘せんとして侍臣をして命を伝えしめしも曙覧は辞して応ぜざりき。文を売りて米の乏しきを歎き、意外の報酬を得て思わず打ち笑みたる彼は、ここに至って名利を見ること門前のくろの糞のごとくなりき。臨むに・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ ホモイはあわてて一生けん命、あとあしで水をけりました。そして、 「大丈夫さ、 大丈夫さ」と言いながら、その子の顔を見ますと、ホモイはぎょっとしてあぶなく手をはなしそうになりました。それは顔じゅうしわだらけで、くちばしが大きくて、お・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・第二の精霊 ここに居る三人は皆お主をいとしいと思って居るものばかりじゃ故お主の御怒にふれたら命にかけてわびを叶えてしんぜようナ。この間第三の精霊は木のかげからかおだけを出して絶えず精女を見て居る。第一の精霊 女子のかたく・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・全くもって、全くもって、嘘なら命でも首でも。わたしはどこまでも言い張ります。』 市長はなおも言いたした、『お前はその手帳を拾った後で、まだ手帳から金がこぼれて落ちてはおらぬかとそこらをしばらく見回したろう。』 かあいそうに老人は・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・隠居三斎宗立もまだ存命で、七十九歳になっている。この中には嫡子光貞のように江戸にいたり、また京都、そのほか遠国にいる人だちもあるが、それがのちに知らせを受けて歎いたのと違って、熊本の館にいた限りの人だちの歎きは、わけて痛切なものであった。江・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫