・・・「実は今ここを巡行するとね、何だか黒い影が御門から出て行きましたから……」 婆さんの顔は土のようである。何か云おうとするが息がはずんで云えない。巡査は余の方を見て返答を促す。余は化石のごとく茫然と立っている。「いやこれは夜中はな・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・自分は閑静な車輛のなかで、先年英国のエドワード帝を葬った時、五千人の卒倒者を出した事などを思い出したりした。 汽車を下りて車に乗った時から、秋の感じはなお強くなった。幌の間から見ると車の前にある山が青く濡れ切っている。その青いなかの切通・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・かりに帝堯をして今日にあらしめなば、いかに素朴節倹なりといえども、段階に木石を用い、屋もまた瓦をもって葺くことならん。また徳川の時代に、江戸にいて奥州の物を用いんとするに、飛脚を立てて報知して、先方より船便に運送すれば、到着は必ず数月の後な・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・ 我封建の時代、百万石の大藩に隣して一万石の大名あるも、大名はすなわち大名にして毫も譲るところなかりしも、畢竟瘠我慢の然らしむるところにして、また事柄は異なれども、天下の政権武門に帰し、帝室は有れども無きがごとくなりしこと何百年、この時・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・その敬神尊王の主義を現したる歌の中に高山彦九郎正之大御門そのかたむきて橋上に頂根突けむ真心たふとをりにふれてよみつづけける吹風の目にこそ見えぬ神々は此天地にかむづまります独楽・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ 日本の大学、なかでも帝大といわれた帝国大学は、明治以来のそういう日本的な伝統のなかで、どこよりもふるい力に影響されていたところではなかったろうか。帝大とよばれた時代でも学力と学資があれば、もちろん、士族、平民という戸籍上の差別が入学者・・・ 宮本百合子 「新しいアカデミアを」
・・・スクロドフスキー教授の末娘、小さい勝気なマリア・スクロドフスカとして、露帝がポーランド言葉で授業を受けることを禁じている小学校で政府の視学官の前に立たされ、意地悪い屈辱的な質問に一点もたじろがず答えはしたが、その視学官が去ってしまうと、今ま・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・その外帝国文学という方面には、堂々たる東京帝国大学の威を借って、血気壮な若武者達が、その数幾千万ということを知らず、入り代り立ち代り、壇に登って伎を演じて居るようだ。これが即ち文壇だ。この文壇の人々と予とは、あるいは全く接触点を闕いでいる、・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・栖方は俳人の高田の弟子で、まだ二十一歳になる帝大の学生であった。専攻は数学で、異常な数学の天才だという説明もあり、現在は横須賀の海軍へ研究生として引き抜かれて詰めているという。「もう周囲が海軍の軍人と憲兵ばかりで、息が出来ないらしいので・・・ 横光利一 「微笑」
・・・その殿様というのはエラソウで、なかなか傲然と構えたお方で、お目通りが出来るどころではなく、御門をお通りになる度ごとに徳蔵おじが「こわいから隠れていろ」といい/\しましたから、僕は急いで、木の蔭やなんかへかくれるんです。ですがその奥さまという・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫