・・・ですからその夜は文字通り一夕の歓を尽した後で、彼の屋敷を辞した時も、大川端の川風に俥上の微醺を吹かせながら、やはり私は彼のために、所謂『愛のある結婚』に成功した事を何度もひそかに祝したのです。「ところがそれから一月ばかり経って(元より私・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・すると微醺を帯びた父は彼の芸術的感興をも物質的欲望と解釈したのであろう。象牙の箸をとり上げたと思うと、わざと彼の鼻の上へ醤油の匂のする刺身を出した。彼は勿論一口に食った。それから感謝の意を表するため、こう父へ話しかけた。「さっきはよその・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ 秋の一夜偶然尋ねると、珍らしく微醺を帯びた上機嫌であって、どういう話のキッカケからであったか平生の話題とは全で見当違いの写真屋論をした。写真屋の資本の要らない話、資本も労力も余り要らない割合には楽に儲けられる話、技術が極めて簡単だから・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・このエキゾチックな貴族臭い雰囲気に浸りながら霞ガ関を下りると、その頃練兵場であった日比谷の原を隔てて鹿鳴館の白い壁からオーケストラの美くしい旋律が行人を誘って文明の微醺を与えた。今なら文部省に睨まれ教育界から顰蹙される頗る放胆な自由恋愛説が・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・僕は新宿の駅前で、肩をたたかれ、振り向くと、れいの林先生の橋田氏が微醺を帯びて笑って立っている。「眉山軒ですか?」「ええ、どうです、一緒に。」 と、僕は橋田氏を誘った。「いや、私はもう行って来たんです。」「いいじゃありま・・・ 太宰治 「眉山」
・・・唖々子は時々長い頤をしゃくりながら、空腹に五、六杯引掛けたので、忽ち微醺を催した様子で、「女の文学者のやる演説なんぞ、わざわざ聴きに行かないでも大抵様子はわかっているじゃないか。講釈師見て来たような虚言をつき。そこが芸術の芸術たる所以だろう・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・ある夏の夜御飯によばれ、古田中氏も微醺を帯びて、夫人の蒐集して居られる大小様々の蛙の飾りをおもしろく見たこともある。このお宅の頃は、数度上った。そして、何ということもない雑談の間に、夫人が西村家の明治時代らしく、大づかみで活溌な日常生活の中・・・ 宮本百合子 「白藤」
出典:青空文庫