・・・が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。 渋谷の金王桜の評判が、洗湯の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打の大事を打ち・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ こう云う言と共に肩を叩かれた私は、あたかも何かが心から振い落されたような気もちがして、卒然と後をふり返った。「どうです、これは。」 相手は無頓着にこう云いながら、剃刀を当てたばかりの顋で、沼地の画をさし示した。流行の茶の背広を・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・その時の話を妹にするたんびに、あの時ばかりは兄さんを心から恨めしく思ったと妹はいつでもいいます。波が高まると妹の姿が見えなくなったその時の事を思うと、今でも私の胸は動悸がして、空恐ろしい気持ちになります。・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・汝ゃ可愛いぞ。心から可愛いぞ。宜し。宜し。汝ゃこれ嫌いでなかんべさ」といいながら懐から折木に包んだ大福を取出して、その一つをぐちゃぐちゃに押しつぶして息気のつまるほど妻の口にあてがっていた。 から風の幾日も吹き・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 十六「それも、行こうか行くまいかと、気を揉んで揉抜いた揚句、どうも堪らなくなりまして思切って伺いましたので。 心からでございましょう、誰の挨拶もけんもほろろに聞えましたけれども、それはもうお米に疑がかかったなん・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ しかし、不愉快な顔を見せるのは、焼き餅と見えるから、僕の出来ないことだし、出来ないと言っても、全くこれを心から取り除くことはなし得なかった。これを耐え忍ぶのは、僕がこれまで見せて来た快濶の態度に対しても、実に苦痛であった。しかし、その・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・世間並のお世辞上手な利口者なら町内の交際ぐらいは格別辛くも思わないはずだが、毎年の元旦に町名主の玄関で叩頭をして御慶を陳べるのを何よりも辛がっていた、負け嫌いの意地ッ張がこんな処に現われるので、心からの頭の低い如才ない人では決してなかった。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・けれど、だれも心から、ほんとうに信ずるものはありませんでした。なんでおまえにそんなことができるものか? この赤い鳥の飛んできたのは、偶然だったろうといわぬばかりの顔つきをして、この汚らしい子供の姿を見守っていました。 そのとき、だれか、・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ 佐々木は心から怒ってしまったのだ。彼は顔を真赤にして、テーブルの上にのしかかるように突立って、拳固を振廻さないばかしの調子で、呶鳴りだしたのだ。私たちはふたたび椅子に腰をおろし始めた。そして偶然のように、笹川一人が、テーブルの向う側に・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・そうした心の純粋さがとうとう私をしてお里を出さしめたのだろうと思います。心から遠退いていた故郷と、然も思いもかけなかったそんな深夜、ひたひたと膝をつきあわせた感じでした。私はなにの本当なのかはわかりませんでしたが、なにか本当のものをその中に・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
出典:青空文庫