・・・ と、佐助は天にも登る心地がした途端に、はや五体は天に登っていた。 しかも、佐助を喜ばしたのは、師もまた洒落るか、さればわれもまた洒落よう、軽佻と言うならば言え、浮薄と嗤うならば嗤え、吹けば飛ぶよな駄洒落ぐらい、誰はばかって慎もうや・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・もはやながくはあるまじく今日明日を定め難き命に候えば今申すことをば今生の遺言とも心得て深く心にきざみ置かれたく候そなたが父は順逆の道を誤りたまいて前原が一味に加わり候ものから今だにわれらさえ肩身の狭き心地いたし候この度こそそなたは父にも兄に・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・経由を話すと、叔母の顔は見る見る恐ろしくなって、その塩鯖の※包む間も無く朝早く目が覚めると、平生の通り朝食の仕度にと掛ったが、その間々にそろりそろりと雁坂越の準備をはじめて、重たいほどに腫れた我が顔の心地悪しさをも苦にぜず、団飯から脚ごしら・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・庭の内も今は草木の盛な時で、柱に倚凭って眺めると、新緑の香に圧されるような心地がする。熱い空気に蒸される林檎の可憐らしい花、その周囲を飛ぶ蜜蜂の楽しい羽音、すべて、見るもの聞くものは回想のなかだちであったのである。其時自分は目を細くして幾度・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・讃仰、憧憬の対当物がなくなって、幻の華の消えた心地である。私の本心の一側は、たしかにこの事実に対して不満足を唱える。もっと端的にわれらの実行道徳を突き動かす力が欲しい、しかもその力は直下に心眼の底に徹するもので、同時に讃仰し羅拝するに十分な・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。 こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。 死ぬ気でものを書きとばしている・・・ 太宰治 「織田君の死」
・・・こせこせした秩序に構わないで、住心地の好いようにしてくれる。それになかなか品位を保っている。なんの役も勤まる女である。 二人きりで寂しくばかり暮しているというわけではない。ドリスの方は折々人に顔を見せないと、人がどうしたかと思って、疑っ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・故郷のいさご路、雨上がりの湿った海岸の砂路、あの滑らかな心地の好い路が懐しい。広い大きい道ではあるが、一つとして滑らかな平らかなところがない。これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくなって、靴どころか、長い脛もその半ばを没してしまうのだ。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・のまゝに謄写しとりて草紙となしたるを見侍るに通篇俚言俗語の語のみを用いてさまで華あるものとも覚えぬものから句ごとに文ごとにうたゝ活動する趣ありて宛然まのあたり萩原某に面合わするが如く阿露の乙女に逢見る心地す相川それの粗忽しき義僕孝助の忠やか・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・ 子供の時分の正月の記憶で身に沁みた寒さに関するものは、着馴れぬ絹物の妙につめたい手ざわりと、穿きなれぬまちの高い袴に釣上げられた裾の冷え心地であった。その高い襠で擦れた内股にひびが切れて、風呂に入るとこれにひどくしみて痛むのもつらかっ・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
出典:青空文庫