・・・人間が懺悔して赤裸々として立つ時、社会が旧習をかなぐり落して天地間に素裸で立つ時、その雄大光明な心地は実に何ともいえぬのである。明治初年の日本は実にこの初々しい解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚剥ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、しだいに裸になって・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・車はゆるやかな坂道をば静かに心地よく馳せ下りて行く。突然足を踏まれた先刻の職人が鼾声をかき出す。誰れかが『報知新聞』の雑報を音読し初めた。 三宅坂の停留場は何の混雑もなく過ぎて、車は瘤だらけに枯れた柳の並木の下をば土手に沿うて走る。往来・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと踵を回らして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ただに実際に心配なきのみならず、学校の官立なりしものを私立に変ずるときは、学校の当局者は必ず私有の心地して、百事自然に質素勤倹の風を生じ、旧慣に比して大いに費用を減ずべきはむろん、あるいはこれを減ぜざれば、旧時同様の資金をもってさらに新たに・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・随分無趣味な装飾ではあるが、住心地の悪くなさそうな一間である。オオビュルナンは窓の下にある気の利いた細工の長椅子に腰を掛けた。 オオビュルナンは少し動悸がするように感じて、我ながら、不思議だと思った。相手の女が同じ人であるだけに、過ぎ去・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・びこそいといとしたはしけれ、おのれは富貴の身にして大厦高堂に居て何ひとつたらざることなけれど、むねに万巻のたくはへなく心は寒く貧くして曙覧におとる事更に言をまたねば、おのづからうしろめたくて顔あからむ心地せられぬ、今より曙覧の歌のみならで其・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・その顔を何心なく見、“Glad to see you”と云いながら、自分は思いがけない心地がした。 この人は、先赤門の傍で見た男ではないか! 印度人のクマラスワミーに会いに来るからには、この人も同国の生れであろう。クマラスワミーは、・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・違なければ大切と心得候事当然なり、総て功利の念を以て物を視候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてやその方が持ち帰り候伽羅は早速焚き試み候に、希代の名木なれば「聞く度に珍らしければ郭公いつも初音の心地こそすれ」と申す古歌に本づき、銘を初・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・夢を見ているように美しい、ハムレット太子の故郷、ヘルジンギヨオルから、スウェエデンの海岸まで、さっぱりした、住心地の好さそうな田舎家が、帯のように続いていて、それが田畑の緑に埋もれて、夢を見るように、海に覗いている。雨を催している日の空気は・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・心敬はこの人を、行儀、心地ともに独得の人としてほめている。よほど個性の顕著な人であったのであろう。そうしてこの禅の体得ということも、日本文化の一つの特徴として、今でも世界に向かって披露せられている点である。そうしてみると、これらの三つの点だ・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫